Seaside Hotel wrote:
> 
> "koma" <koma-ds@k9.dion.ne.jp> wrote in message 
> news:5vbPd.1346$Ex3.33@news1.dion.ne.jp...
> 
> 日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず
> 、又道理証文よりも現証にはすぎず
>           『三三蔵祈雨事』より
> すなわち、現実の姿、現実の結果が大事であると
> いうことです。

ちがいます。単にそういう見方もできる場合があるというに過ぎません。

小作くんの下手な「死」でいえば、感動の実体それも客観的対象のみならず主観
的な感覚を含めたもの、これを、主観・客観の統一体と呼ぶならば、主観客観の
統一体としての「存在」、これをいうのであって、それとは無関係に一人歩きを
した、言葉や下手な表現をいうのではない。日蓮は「現証」でこれを言おうとし
た。考えても見たまえ、小作の言うように単に現実の姿、現実の結果、結果さえ
よければ、というようなことであるならば、日蓮宗は何度も何度も人心を惑わす
邪教の憂き目に会った事を自ら認める事になるはずである。日蓮はこれを認めて
はいない。

横道に反れるが、「ことば」は本来的に発展経路が別である。「ことば」がこの
人間社会に登場したのは要するにコミュニケーションの道具としてであった。頭
に浮かんだ実体、あるいは心に浮かんだ「これぞ」という実体を他と共有し、己
の中においても整理・安定化させる目的で登場したのである。つまり、「こと
ば」は「これぞ」という実体を示すいわゆる「記号」、それも音声的したがって
聴覚的「記号」であった。そして、「ことば」が文字化するにおよびますます複
雑な音声記号として発展してきたものである。

要するに、日蓮の「現証」は、感動を言うのにそれをそっちのけにした一人歩き
の「ことば」などをいうものではなく、ましてや馬鹿のくせして他をだまし己が
賢いかのように誤解させる手段としての「ことば」などをいうものではない。そ
れらは全て「証」にはあたらず、「象」にすぎない。

また、これはほんの一例であるが、仏教や一部の文化が大陸そして朝鮮を渡って
日本にやってきた「象」を捉え、それに前>後というような勝手な価値序列を捏
造し、北朝鮮をも日本の「兄的存在」だから彼らが何をやらかしても「尊重」さ
れなければならない、とする小作の持論は、「小作」であっても、何かは思考し
つつ生きている事を他にアピールするためのものであって、中国人や朝鮮人まし
てや客観的事実に資することを意図したものではない。唯一、自分の「みばえ」
のためにまことしやかな価値観を装っているだけ。実際には何重にも誤りを犯し
ているわけであるが、もちろん「現証」には当たない。意図的に他を誑かそうと
しているに違いないのだ。でなかったら、これほどのみっともないことは口には
出せまい。やはり、「現証」とは程遠い。

♯小作が自慢げに講釈をたれる殆どが日蓮の言う「現証」とは無縁であり、むし
ろ日蓮からは忌み嫌われ蔑まれる性質のものである事はおいおい明かされるで有
りましょう。

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Golden Cross