! "<4197fba3$0$971$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Mon, 15 Nov 2004 09:43:59 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> こっちは続けてみるか…
> KGK == Keiji KOSAKAさんの<cn4ork$hmq$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> そういうのも二値だというのであれば、「哺乳類であるか否か」も二値ですね。

> 当たり前です。

>> でも、
>> 
>>>>> 「犬ならば哺乳類である」は哺乳類のカテゴリが多値(犬、猫、牛、馬、…)な
>>>>> ので「犬でなければ哺乳類でない」は成り立たない。
>> 
>> なんですよね。

> 違いが分からないんですが?

分かりません。

> 因みに「「犬ならば哺乳類である」は真(偽)である」なら二値ですね。

だから、なんでしょう?

>> まあ、「××か否か」を二値だというのなら、命題はなんでも二値になります。
>> 命題ってのは真偽の二値をとるものだからね。

> 「PならばQである」という命題の取り得る値は真偽の二値ですが、それはP,Q
> もまた二値であることを保証しません。KGK氏はそこいら辺を混同しているの
> ではないでしょうか。

ああ、言葉の意味を知らないんですね。
今は、命題の裏とか逆とかを相手にしていますから、当然、命題論理学の話を
してるわけです。
命題論理学では、「PならばQである」というときの、PやQも命題と言います。
例えば、「犬である」というのは命題です。
そして、命題というのは、真か偽かのどちらかを値として持つものです。
# その値は明日決まるかもしれないし、知り得ないかもしれないが。

というわけで、命題論理学で「PならばQである」という命題を相手にするとき
には、当然、PもQも命題であり、真偽の二値を取るものだという前提がありま
す。
そうでなければ、それこそ真理値表が書けません。
# っつうか、書いても無意味になる。

さらに言えば、命題論理学では、PやQが真偽のいずれかであることのみを使っ
て、その内容が何であるかに左右されません。

よって、

>>>>> 「犬ならば哺乳類である」は哺乳類のカテゴリが多値(犬、猫、牛、馬、…)な
>>>>> ので

なんてのは、命題論理学では無意味です。

>>>> ある条件を付け加えたら成り立たないというのでは、前提が足りないわけです。
>> 
>>> 大抵の物事は勝手に前提を変えたら成り立たないのが普通です。
>> 
>> 私は前提を変えたりしてません。付け加えただけです。
>> 元の前提から論理的に導けることは、元の前提と矛盾しない前提をどれだけ付
>> け加えても導けるはずです。
>> そうでなければ、導出が誤りだということです。

> あのね、^_^;
> 取り得る組み合わせの一つが「存在しない」という前提を勝手に付け加えるこ
> とは、即ち「取り得る」という元々の前提を「取り得ない」に変更することに
> 他ならないでしょ。

取り得る組み合わせの全てが存在するという前提はないでしょ?
# そういう前提だったら、「PならばQ」自体が考えても無駄ってのは前の記事
# で示した通り。

私は、「Pは二値の何れかを取る」「Qは二値の何れかを取る」という二つの前
提に抵触しないようにモデルを作りました。
それ以外に前提があるのなら、示してもらはないと分かりません。

>>> このようなことは元々「色と形に関連性が無い」為に可能となったことであ
>>> り、もっと関連性の濃い組み合わせ、例えば色の代わりに「右手か左手か」形
>>> の代わりに「手の甲側か平側か」を採用すれば「左手の平は存在しないものと
>>> する」といった恣意的な設定のオカシサがより分かり易くなると思います。
>> 
>> それは、そのようなケースでおかしいだけの話ですね。
>> 色と形や、哺乳類と犬では、おかしくないわけ。

> 一旦、「手の甲側か平側か」を認めた以上、「色と形や、哺乳類と犬では、お
> かしくない」ことの根拠の提示と説明が必要となるでしょう。

何故?
あるケースでおかしいことが、全てのケースでおかしいことを示すわけじゃな
いよね。

それに、哺乳類と犬でおかしいと思ってるの?
そうじゃなきゃ、おかしいケースもそうでないケースもあるってだけのことで
しょ?

>>> 繰り返し問いますが、KGK氏の主張は
>>> ・赤いサイコロはKGK氏の世界には論理的に存在し得ないものである
>>> ・赤いサイコロはKGK氏の世界として設定された状況においてはタマタマ存在
>>>  していなかっただけで、別の状況では存在する可能性がある
>>> のどっちですか?
>>> KGK氏の詭弁は両者を意図的に混同している点にあるのではないかと思います。
>> 
>> もちろん、後者ですし、後者について論理を適用できない理由は何もありません。

> つまりKGK氏の論理は、一回だけサイコロを振って「一の目が出る確率は100%
> である」と主張しているようなものですな。もう一度振れば別の目が出る可能
> 性を恣意的に除外しているのだから。

いいえ。
確率ってのは、何度も試行した場合のことを相手にしています。
それが一回振っただけで分かるはずはありません。
当然、それは、その試行で一の目が出たことから論理的に推測できることでは
ありません。

私が言ってる論理ってのは、一回だけサイコロを振って一の目が出たという前
提から、「その試行では一の目がでた」とか「その試行では一以外の目はでな
かった」とか「その試行では六の目はでなかった」とか言ってるだけのことで
す。
他の試行のことは何も言及していないし、言及する必要もないことです。

論理的な推論ってのは元になる命題の真偽から複合命題の真偽を推論すること
であって、元の命題の真偽が変更されれば結果も変更されるかもしれないって
のは、当然の話ですね。
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK