"takazawa" <dr11e@yahoo.co.jp> wrote in message
news:co0cv6$373$1@caraway.media.kyoto-u.ac.jp
> >最初から原発の内外という基準で分けるのではなく、やはり「人数」では
> >ないでしょうか。
> >同種の事故のことでも、それが原発の施設内で起きたら1万人死ぬ可能
> >性が5割有って、火力発電所で起きたら5人だとするなら、「国全体の政策」
> >とては1万人の死の事故に対する対策のほうを重大視せざるを得ないので
> >はないでしょうか。(数値については私の想像にすぎません。)
>
> やはりそこを優先せざるを得ない訳ですね。
> 人命の重さに、差はないというのは幻想に過ぎないと。
>
> 作業員な知人には、その旨伝えておきます。

今のことは知りませんが、以前、国鉄では毎年殉職者が何人も出ていた
ということですが、大きな社会問題にはなっていなかったようです。しかし
大きな事故が起きて多くの人命が一度に失われれば、同種の事故に対
する対策は実行されてきたと思います。それとちょっと似ているところは
あると思います。

「一人の命の重さ」の話なら、観点によって価値は異なって扱われてきた
と思います。国に従順な人の多い地域には環境汚染する施設を作って多
くの人に被害を与えてもいけるだろうとか、国の電力を支える技術者の命
が一度にたくさん失われることは避けたいとか、見る立場によって、人一人
の命の重さは差があるように見えていて、差があるように扱われているの
だろうと思います。
後年、日本で最初のノーベル物理学賞受賞者になった人も、若い学者
だったころ、軍が彼を温存の価値有りと見なしたから、死亡率の高い軍
の現場に回されなかったのだろうと思います。

#テレビドラマ「3年B組金八先生」などは、人一人の命に差はないという
 建前に立とうとしているようにも見えますが、まだ充分ではないと思います。
 死刑囚の和歌や生い立ちを振りかえって、その命の重さをうったえたりした
 (死刑に反対した場面ではない)場面もありましたが、現実に起きていること
 として「ホームレスを死に至らしめる暴行」なども扱ってほしいと思います。ド
 ラマとしては作りにくいかもしれませんが。