飯塚(東京都)です。

"Yoshitaka Ikeda" <ikeda@4bn.ne.jp> wrote in message
news:cet17g$33f$1@caraway.media.kyoto-u.ac.jp...

> >> 「シナ人」という言葉が元来の意味に「侮蔑的な意味合いが
> >> ついていった」のに対し、「日本鬼子」は「侮蔑するために作
> >> られた言葉だ」と主張しているわけです。どちらが罪深いか
> >> といえば後者の方が罪深いでしょう。
> >
> > 蔑称をあえてランク付けして、どっちが罪深いか論じること
> >が、最初からくだらないことだと思いますね。
> > どんな形であれ、蔑称を使うこと自体罪深いことでしょう。
>
> もともと蔑称でないものを蔑称として使っていない状況で、蔑称
> 「としても使われる」からといってそれが罪になるとは思えません。
> それを罪にするのは「言葉狩り」にすぎません。

 まず最初から認識の違いがあるように思えますが、「支那」は
日本も認めた蔑称です。「言葉狩り」とは根本から違いますね。
(政府通達「支那の呼称を避けることについて」昭和21年6月6日)


> > それをあえて問うとすれば、歴史的に古い蔑称ほど罪深
> >いと思います。
> > それだけ長く蔑視感が残ってるということになりますから。
> > ちなみに「支那」が蔑称になったのは、大正時代とされて
> >いますね。(「支那」と呼んだことについての考察」佐藤三郎)
>
> 私は、「倭奴」や「チョッパリ」や「日本鬼子」がいつ頃生み出さ
> れたのかはわかりません。

「日本鬼子」は1938年7月7日蒋介石の演説が最初とされています。
(「全国の軍隊と国民に告げる書」蒋介石)


> >> 我々にはそれを批判する自由があるのは当たり前だと思う
> >> のですが?
> >> もしかして、そんな主張をする言論の自由はないとかおっしゃりますか?
> >
> > 批判は自由ですよ。
> > しかし今回のように蔑称「支那」を擁護すると、やり過ぎだと
> >指摘しているだけです。
>
> 蔑称擁護論といわれると心苦しいなぁ。
> ある言葉が「蔑視するために作られた言葉」でない限り蔑視と関係
> ない文脈で使われても私はそれが蔑称だとは思わない。と主張し
> ているわけです。
> この主張がさほど変な主張ではないと私は思っていますが。

 少なくとも「支那」に関しては、変な主張です。
 後天性とはいえ、既に蔑称として認知された言葉を、「なんとか
使う理由」を開発してるようにしか見えません。
 今からわぁわぁ言っても、「支那」が蔑称でなくなるわけではない
です。

--

 東京都 飯塚顕充