どなたかが法律学の中心は「法解釈学」であると言うような事をたいした理由も
付さずして言ったからなのかどうかはは知らないが、実定法を前にしてなにか特
別な内容を新たに付け加えるかのような意識でいる論者がfj.soc.lawには増えて
いるのではないか?もちろんこれは実証しての意見ではないから、断定はできな
いが、増えていると言うのは違う、とするのならば、今後への注意の喚起として
意見を述べさせていただきたい。

「解釈」はあくまでも(制定)法の「意味」を認識するに過ぎない。いくらすば
らしい解釈を施したからと言って新たな内容を付け加えることにはならない。
「解釈」はまた、それが完了したときには、元々そのような意味内容の法律が制
定されていたのだ、と考えるべき性格のものである。換言すると、解釈を施す前
の制定法と解釈後の制定法の間には、ずれ等もちろん無いのみならず、「意味」
が違っているけれども、しかし、それは同一性を保つのだ、というようなもので
もない。解釈を施して認識した意味が生成された時点でのその法の元々の意味で
あった、こう認識すべきものである。

こんなことを敢えて言うと阿呆丸だし、との批判を受けるかもしれないけれど
も、実際、論者たちが議論しているのを見ていてイライラすることが多い。解釈
解釈と連呼し、なにか特別なことでも法に施すかのようである。有意義な議論に
水を差しているようにさえ感じるときが有る。もったいない。最悪はかえってそ
れが意思疎通を妨げてしまい言いたいことが相手に伝わらない場合まで出てく
る。ここではっきりさせよう、「解釈」の意味を。簡単に言う方がかえってよい。

  法解釈とは単に「既存の法の『意味』を訪ねること」に過ぎない


A説、B説、C説…と言うように意味の捉え方に違いが有るような場合でもこのこと
に変わりはない。すなわち、A説の立場で見ればA説のような意味が当該法の元々
の意味だったのであり、B説の立場で見ればはじめからB説のような意味が当該法
の元々の意味だったのである。

極端な話、一々「解釈」「解釈」などと断る必要はなく、相手から、条文にはそ
んなことは書いてないよ、とか指摘されたとき初めて「それは解釈によるんだ」
とか答えるようにし、そこで初めて「解釈」という言葉を口に出すくらいがちょ
うどよい。もちろん、これは一つ例えである。

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おいらはMac@Individual.Net