どう考えてもスタイルじゃないので、引越し。

! "<3fe61464$0$19835$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
!     Mon, 22 Dec 2003 06:46:12 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:

> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bs17v5$2rk$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>> 充分です。
>> 私が評価してるのは個々の行為であって、それ以外の何かではありません。

> 個々の迷惑において、批判者が「自分自身も同程度の迷惑を掛けている」かど
> うかを*その場で判定する*ことは殆ど不可能と言えるでしょう。が、社会的に
> 見れば「誰にも迷惑を掛けずに社会生活を営むことは困難」であることもまた
> 明らかなわけです。

それが何か?

> 「被批判者は知らないのがデフォルト」であることは「ばれなきゃ構わん」と
> か「批判したモン勝ち」であることを意味しません。

もちろん、それが正しい内容の批判であれば「批判したモン勝ち」でいいんで
す。

> 繰り返しますが、私が
> 言ってるのは「他者を批判するものは、先ず自らを律するべきであろう」って
> ことです。

私が主張してるのは、「正しい内容の批判をするのは正しい」ということ。

> 更に、その「個々のケース」という*切り出し方*が恣意に基づいてるのが問題。

「個々」の意味がずれてきてますね。
上で述べたのは「複数回行なわれてることの一回分」の意味。
下で議論してるのは「ある種の行為群を一個と見倣すかどうか」の意味。
後者も議論の対象になりますが、一応は別物ですね。

> 現在のKGK氏はたとえば「「放火して消火した」は*個*ではなく「消火した」
> が*個*である」といった主張をしているわけですが、

いいえ。その場合は個と捉え得ると主張してます。
# 本当は限定条件があるし、それをあまり意識せずに書いちゃってるけど。

> 実の所「消火した」の内
> 容は「水を汲んできて火に掛けた」だったりするわけです。何を*個*とするか
> は議論のテーマに沿って決められねばならない。

それ以前に、「一個の行為」と見倣し得るための条件も考えとかなきゃいけま
せん。
私の主張は、
・「ある目的を達成するために行なわれた行為群」は一個の行為と見倣せる。
というもの。

だから、「水を汲んできた」と「水を火に掛けた」は、それぞれに一個の行為
と見倣せるし、「消火という目的のために行なわれた行為群」として「消火」
という一個の行為と捉えることもできる。

「放火して消火した」というのは、例えばそれが、「いい意味で世間の注目を
浴びる」という目的のために行なわれた行為群であれば、「マッチポンプ」と
いう一個の行為と捉えることができ、例えば、「放火してみたけど気が変わっ
て消火した」などというときには一個の行為とは捉えられない。

「自分でポイ捨てしながら他人のポイ捨てを批判する」というのは、その行為
群を統一する目的が見えないので、一個の行為とは捉えられない。
# もちろん、統一する目的があるような場合では、そのような場合に限り、一
# 個の行為と捉えることができる。

> *矛盾した行為そのもの*につ
> いて議論しているのであれば、たとえば「放火して消火した」という一見矛盾
> した行為全体を*個*と捉えるべきであって「消火して何が悪い」の類は反論の
> 体を為さない、「何の関係もない話」です。

いつものことながら、「矛盾」という言葉をどのような意味で使ってるのか不
明です。
「放火して消火した」のどこに矛盾があるんでしょう?
というわけで、「矛盾した行為そのもの」という問題設定が分かりません。

さらに「反論」って、何に対してのことだと思ってるんでしょう?
「マッチポンプ」が悪いことは誰も反対してません。
その上で、その行為の一部である「放火」は悪く、「消火」は良いと主張して
るだけです。
「消火は良い」という主張が「マッチポンプは悪い」に対する反論に見えると
したら、問題の切り分けが全然出来てないってことです。

>> 他に忌避度が高いものがあるかどうかは関係ないでしょう。

> 常識的に考えて、「円滑な社会生活を妨げる*全て*のものを排除する」ことは
> 不可能ですので、「より妨げるものがあるかどうか」は大いに関係あると思い
> ますが?

そういう捉え方をするのなら、単に「あるかどうか」を論じても意味ないでしょ
う。
少なくとも、頻度と対策の難易度ぐらいは合わせて論じないと。

>> ポイ捨てされたゴミは不衛生な状態を招き、美観を損ね、環境を破壊し、場合
>> によっては異臭を放ち、場合によっては通行の妨げになるものです。

> この観点から見るなら、
>  タバコの吸殻: 美観を損ねる
>  ジュースの空き缶: 不衛生、美観を損ねる、異臭を放つ、通行の妨げになる
> ので空き缶のポイ捨ての方が遥かに「社会生活を妨げる」存在であると思いま
> すけど?

タバコの吸殻: 美観を損ねる、高温、有毒、(くすぶってるときや水につかっ
              てるときは特に)異臭を放つ
ですね。
既に指摘した部分まで挙げないってのは、その方が都合がいいからですか?

>>>> 愚行か否かに関係なくってことは、「善意からの愚行」と「悪意からの愚行」
>>>> の区別をつけるってことですよね。
>>>> 
>>>> <bmr7fg$uua$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>:
>>>> : 1)空き缶のポイ捨てより吸殻のポイ捨ての方が相当に悪くて、その間に社会的
>>>> :   なレベルの迷惑かどうかの境界があると信じてる場合
>>>> 
>>>> というときは、善意がある(少なくとも悪意はない)と思うんですが、区別して
>>>> ないですよね?
>> 
>>> 社会的通年とかけ離れた個人的な思い込みを「善意」とは呼ばない。
>> 
>> 少なくとも前半部分は社会的通念とかけ離れてないってのは、以前根拠を示し
>> た通り。

> 前半?どれ?どこの前半だって?

もちろん、問題となっている 1 と番号付けわれた文の前半です。
ちなみに、ここで言う「前半」は、読点より前の部分を示してます。

>> wacky氏が空き缶のポイ捨てを明らかに間違ってると断言する自信がないと評
>> してることから見ると、後半部分に関しても社会的通念とかけ離れてるってわ
>> けじゃなさそうですね。

> 日本の社会的通念が欧州で通用するとは限らないし、東京の社会的通念が大阪
> で通用するとは限りません。

ってのは、私の
>> # もちろん、これは、文化形態などに依存する話。
と同じですね。

> 空き缶のポイ捨てが日常化し誰も異議を唱えないような*場所*では、そのロー
> カルな社会でのみ通用する社会通念が形成されている可能性がありますね。こ
> のような(ローカルな)社会的通念と単なる「個人的に信じている」だけの*思
> い込み*は明らかに異なります。分かりますよね。

で、上の 1 の文の場合が「社会的通念とかけ離れた個人的な思い込み」であ
るという思い込みはどこから来たんですか?
ひょっとして「信じてる」の部分?
もちろん、間違ってることを「信じてる」場合もあるし、正しいことを「信じ
てる」場合もあるでしょう。
後者を排除して前者のみを採る理由が何かあるんですか?
-- 
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK
KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
KGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGKGK