J_Saita3 premium wrote in message <3f143993_1@news.premium-news.net>...
>
>"crx" <kimicrux@crux.ocn.ne.jp> wrote in message
>news:bf0j9a$9sb$1@nn-tk103.ocn.ad.jp...
>>
>> J_Saita3 premium wrote in message <3f12c879_5@news.premium-news.net>...
>> >
>> >"Masaya Oda" <ayasamado@mac.com> wrote in message
>> >news:140720030423026005%ayasamado@mac.com...
>> >> In article <3f1186ca_2@news.premium-news.net>,
>> >> J_Saita3 premium <J_Saita3@hotmail.com> wrote:

精神病については必ずしもユングのここにのべられている意見だけで、論評するこ
と
>は妥当とは思えません。前段、後段があると思うのです。精神病は、宗教による解
決
>よりも、科学的な経験則で医学的な見地で対応すべきものと思うのです。宗教によ
る
>安らぎがあるとするなら、何らかの医学的な効果にむしろ宗教の長所が吸収されて
い
>ると見るべきでしょう。

医学と宗教のおもさが半々というところでしょうか?
小生の考えは2分8分というところである?
薬なんてめったにのみはしない。風邪を引いた時くらいなものである。

>ただ、ユングには、私も一目を置いています。精神分析のフロイトとは袂を分か
ち、
>彼自身超能力者である側面を持っているユングは、大きな意味で宗教的な直感にた
け
>ている人でしょう。
>宗教という枠でユングを吸い込むならば、しかし、宗教のもつ大きさにユングはま
だ
>まだかなう器ではないとは思うのですが。その一番の理由は、潜在意識という領域
>は、阿頼耶識というような宗教的領域を模倣してはいるが、そこには、神というあ
い
ま>いな概念を潜在意識に置き換えたある種の科学用語性はあるものの、逆に、人間
の
>直感する、普遍的に浸透していてそれ自身あたかも意志を持っているような主体性
あ
>る意識を、意識の盛り込まれている器の問題にすり換えている面がユングには感じ
る
>からです。潜在意識というのは器、容器であり、すくなくとも、容器に内在する
エー
>テルであり、器もエーテルそのものさえをも包括した場を支配する意志なるものを
ユ
>ングは規定はしていないと思うのです。そこが、ユングの弱点ではないかと。

阿頼耶識とは、荒屋敷でもなく、新邸でもなく、粗屋敷でもないものであるが御存知
であったか?
エーテルに関しては、よほど好物と思われますなあ。

>> 本当に苦しいときは「神様助けて!」と誰もが叫ぶものと思われます。それは、
口
先
>> では「神なぞ信じない」と言っている人でも、その人の潜在意識の中ではちゃん
と
神
>> 様を信じている意識が存在することではないでしょうか?
>

>その通りだと思います。無心論者は彼自身、眠っているときの自分も自分であるこ
と
を計算に入れてないですが、眠っている彼もまた彼です。神を信じて泣き叫んでいる
>夢の中の自分を忘却している自分だけが自分ではない。母の胎内にいた自分もまた
自
>分であり、死後の意識を信じるならばそこにある意識もまた自分であるといえるで
>しょう。さらに、輪廻転生を信じるならばもはや自分でない自分との継続性におい
>て、やはり自分であるということも言える。自分なる幻想、この問題は小さいよう
で
>大きいと思いますね。

そのとおりですね。、悟られましたかな?
人間はみな記憶喪失症にかかっているのです。それは生まれてくるときの約束事でも
あったわけです。
それを「人天のわな」といいます。喪失のわな。忘却のわな。無知のわなのみっつで
す。

> >>問題は、不可知論の対象である神が、人間の独断により、さまざまに脚色され、
解
> 剖
>>>され、ルーツを持たされ、教えというストーリーが絶対化され、人間の導出した
教
> え
>>>に、直感的に認識される神なるものに息吹が吹き込まれて、第二の誕生をはた
し、
> 君
>>>臨して人間を導出することも現実には起こっているということだと思います。
>
>> それは本当の神ではなく「神ならざるものを神と見間違えてしまう。」というこ
と
で
>> しょう。
>> その人の悟りの段階によって神の捕らえ方が違うのはやむをえないことでしょう
が
・
> ・・
>

>人間の認識力の限界が神を透かしてみるということなのだと思いますね。

人間の認識力の限界が、神をおぼろにしか見られないという事でしょう。


>> ちゃんとした指導者がお生まれになるときは、とことん自らを、世界を、指導者
を
信
>> じて大丈夫!!
>> イエスを信じきれなかった12使徒のほうが悲劇!宗教とは拘束でもなく、硬直
で
も
>> なく、全き自由な心(愛の心)に自己を開放するということ!!!

>ここは、私は疑問なのです。イエスは聖人ですが、預言者イエスという扱いにはイ
エ
>スの本領が消えてしまうように思うのです。いかなる聖人も指導者、グルとして
は、
>つまり、生き神としてはあまりに人間の束縛のなかで拘束されすぎている。

イエスが生まれたときは、マグダラのマリヤやなんとかのマリヤや、ぺテロ、アンデ
レ、シモンのようにコバンザメのごとくイエスから離れず、仏陀が生まれたときは、
ヤサや、アサジ、チュ―ラパンタカやアナンのように仏陀から離れず生涯を共に過ご
すことを第一の人生の目的にするくらいの心構えをしないでなんで、まほろばに生ま
れし大和魂ぞ!

>> >人間なら誰しもが持つ神への直感をねじまげることなく、かといって、そうして
近
>> >寄った神に横暴を吐露させることもなく、人間の英知で神への信仰を積極的に認
め
> る
>> >世界、これはかなり成熟した「神と人の共存する社会」でしょう。そこにいたる
道
> し
>> >るべ、それは何か。
>> >いかにしてその道しるべを樹立できるのか。
>
>> その答えは、汝自身の心の中に既に解答として与えられているのです。その必然
に
気
>> 付き、素直に自らの選びし道に向かって精進するか、否かは汝自身に委ねられて
い
る
>> んやなかと???
>

>私は、アートマンをブラフマンと同根と思いますが、自らが神であるとするあるい
は
>神が内在するという心境は、これはもう達人の領域だと思うのです。

ブラフマンとは、日本語では梵天と訳されておりますが、それは、あの世の天使であ
ると小生は思います。
天使であろうが、神であろうが、三位一体の摂理においては「アートマン」とさほど
違いはしないと思うが、アートマンとは「自我」というものであろう。それは、人生
の道行きを決める「ハンドル」の如きものであると思う。とすれば、我々凡人におい
ては、アートマン=ブフラマンとはそう簡単には言えないと思う。

>皆が皆、到達で
>きるものどころか、ほとんど誰もそこまでいけない。カリユガの時代において、民
主
>主義という制度は人間を解放することはしたが、深い意味ではむしろ民主主義を丸
め
>て懐に入れてる者たちがいるのではないか、民主主義は、神の領域の足元にも及ば
な
>い。ただ、神の領域ではないがそこへの道筋と交わるものもある。それは、民主主
義
>の持つ理念であると思うのです。いかなる政治制度も、この理念を、曲解するよう
な
>指導者の下では民主主義は捻じ曲がる。理念という一点において画竜点睛となる点
が
>いかなる制度においても必要で、宗教はこうした点睛を導出するツールではないか
>と。よって宗教が制度となるのは本末転倒であり、理念なき制度、政治と同じもの
と
>いう意見です。

宗教については何をもって宗教とするかが、その根本の基準にあると思う。
例えば、14〜15世紀におけるヨーロッパにおける宗教改革において、共にルネッ
サンス:文芸復興が起こった。ドイツではルターが、フランスではカルヴィンが宗教
改革を行ったちょうど同じ時期において宗教とは関係ないように見えるあらゆる文
芸、科学、その他諸々の復興が新しく起こったのである。つまり、神の計画において
人間を愛するときには、宗教(それは、いわゆる宗教とはもはや言えぬと思うが)の
中にはあらゆるすべての諸々の分野での変革が起こるのである。それはもはや小さな
人間の「小知」によっては予測もつかない神の計画の一部なのである。

crx