KGK == Keiji KOSAKAさんの<buto37$o71$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>例によって全然スタイルじゃないので、引越し。

うむ。確かにスタイルではないな。というより、元々、スタイルに持ち込まれ
たこと自体が間違いであったと思います。


>>>>>> 1.Aはポイ捨てする
>>>>>> 2.Bはポイ捨てする
>>>>>> 3.AはBのポイ捨てを批判する
>>>>>> 4.AはAのポイ捨てを批判しない

>>>> そこでは「その4つが全て行なわれてる」という認識には何
>>>> #の意味もない。他の判断に何ら利用されていないのだから。
>>> 
>>> 利用した上でほぼ影響しないと判断しただけのこと。
>>> # 繰り返し説明してるように。
>
>> で、その判断の根拠とは?
>
>「行為の行なわれた状況」は、「行為の起点」としての意味を持ちます。

これまでの議論の経緯から言えば「行為の行われた*状況*としての意味を持
つ」と言うべきでしょう。

>そして、「行為によって引き置こされた状況」が「行為の結果」であり、「行
>為の起点」と「行為の結果」の差が「行為の効果」です。

通常はそれを単に行為の結果と言うでしょう。

># 今回、「効果」という概念を導入してみました。

#都合の悪いイメージの付いた用語を言い換えて議論を巻き戻そうとしている
#だけなんじゃないかなぁ…。

>行為の社会的評価は、行為の効果に対して行なわれます。
>このことは、
>・評価されるのは行為によって外界に及ぼされる影響に対して行なうものであっ
>  て、行為として表れない部分は評価の対象ではない。
>・その行為によって引き起こされた影響以外のものへの評価は、その行為の評
>  価ではない。
>という、ひどく妥当な結果を導きます。

ぜんぜん妥当じゃないっス。^^;

結果として盗んだ金額が一万円だろうと一億円だろうと盗みという行為の
*悪さ*に違いはありませんし、結果として全焼しようが半焼だろうが放火とい
う行為の*悪さ*に違いはありません。江戸時代ならともかく現代日本において
はそれが常識というものです。
行為の効果→結果の多寡など、KGK氏言うところの「情状酌量に影響する程
度」の話でしょう。


>> A1:放火して消火する → ×
>> A2:消火する → ○
>
>> なら
>
>この、○が一つの行為として評価可能を示していて、×がそうでないことを示
>してるのなら、私はそういう主張をしてません。

NOと述べるだけでは論理的主張とは言えません。

>> 一般に言う大抵の「行為」ってのは小行為の集積であるわけですが、
>
>その小行為は「手段」と呼ばれるものですね。

行為から見て小行為を手段、小行為から見て小々行為を手段、大行為から見れ
ば行為を手段と呼ぶことができますね。だから何?
#救急車のサイレンは私の前を通り過ぎた瞬間に音程を下げるわけじゃない。
#変わったのは私の立場であってサイレンが変化したわけではありませんよ。

>> KGK氏の主張はどこまで評価を割当てられる・られないの線引きに根拠が無
>> い。単にKGK氏本人の恣意に基いて行われているようです。
>
>目的の共有の有無です。
>ちなみに、wacky氏は、そのような線引きを説明してないようですね。

部分のみを見て全体的な目的の共有を知ることはできません。KGK氏が目的の
共有を主張したい時は一時的に全体的な視点を採用していますね。しかし、そ
うでない時には全体的視点を認めようとはしない。非常に恣意的です。

-- 
wacky