やっぱり木村アキオは精神も脳もスポンジ

みんなのケンちゃんさんの<bumgn8$1rg$1@news-est.ocn.ad.jp>から
>
>"MAC屋けんちゃん" <きむあき@けんけん> wrote in message
>news:400d44f5$1_2@news.premium-news.net...
>> A-11さんの<20040120101225.716d9d72.st8101@stex.phys.tohoku.ac.jp>から
>>
>> 価値相対主義は、人間の価値観というのは、個人個人違うというものです。
>
>こんな事は当たり前。個人は個性があるとするなら価値観がそれぞれ異なることが有
>るのは当たり前である。こんなことしか言えないのならば「価値相対主義」などと
>仰々しくは言わないこと。みっともないから。「主義」と言うからには「考え方」の
>定式の明確な固有性を言うべきである。
>
>> 当然、『価値(すべき、に違いない、でなければならない)』というのと、
>> 『事実』とは相容れないもの。『事実』から『価値』を演繹することはできな
>> い。『価値』は個人個人の情緒によってきまる。言論の自由、思想信条の自由
>> を保障し、少数意見には忌憚なく言論批判をさせて多数派に成長する可能性を
>> 保障するものでなくてはならない。
>
>杜撰だね。「すべき」・「に違いない」・「でなければならない」は<価値>ではな
>い。それを言うならばある価値を前提にした「判断」即ち価値判断だ。「価値」の意
>味も知らずにこれまでうだうだ語っていたわけだ。また「事実とは相容れないもの」
>と言うのも誤り。事実は実際に起こったあるいはそこにある事柄・事象・現象と言う
>観点から捉えたものであってその中には価値が含まれていることがある。捉え方の観
>点が違う以上違うのは当たり前で「
>相容れない」などと表現するのは滑稽也。物事を知らない証拠。「価値が個人個人の
>情緒によって決まる」と言うのも誤り。価値自体は個人がとう思おうと既に存在す
>る。その既に存在する価値をどう自己の内面に受容するかは「情緒によって決まる」
>と言うこともできるであろう。また、誰も事実から価値を演繹する者などいないであ
>ろう。とっぴょしもないことを言って字数を増やし内容を盛ったつもりでいる。んっ
>まっ、こういうことで騙される読者がいることのほうが問題だろうけどね。
>
>雑多な花を乱雑に咲かせすぎる。花ならば決定的な中心となる大きな花を一つ咲かせ
>ればいい。それよりも価値判断を元に主張の目的を明確にして論理の流れに主眼を置
>き基礎理論としての大きな幹とそれから枝分かれする論理の流れを表現するだけでよ
>い。それ以外はごまかし材料として邪魔臭い。
>
>で、「言論の自由、思想信条の自由を保障し、少数意見には忌憚なく言論批判をさせ
>て多数派に成長する可能性を保障するものでなくてはならない。」と言うのは結構だ
>がその前の話と論理的接合関係がなってない。<文学的表現>だと皆から揶揄される
>理由がこういうところにある事に早く気づけや。
>
>> 少数だからということで、発言の機会を圧縮したり、忌憚なき言論批判の機会
>> を封じるのは、ベンタムの「最大多数の最大幸福」実現の思想ではない。反近
>> 代民主制です。
>
>一応まともである。しかし、そんなことは多数決原理そのものに既に内包されている
>姿勢である。ベンタムの「最大多数の最大幸福」を内容とする個人主義的功利主義は
>確かに個人の幸福追求権という「自然権思想」と結びつくがそれは自然権と言う価値
>を意識させる起爆剤にはなるものであったが、それゆえに理論的基礎になりうるに過
>ぎなかった。やがてその考えに慣れてくると集団主義的功利主義が意識され、この段
>階が政治組織論の中に反映可能となる。しかし、この段階になると却って「最大多数
>の最大幸福」という定式は集団のための個人の犠牲を正当化するものに変容する。
>「最大幸福」の認定は誰がやるのか、またどのようにして行うのか、という問題にぶ
>ち当たるからである。少数のものにその判断権が任されれば専制的になる可能性を秘
>めたものであるし、このことを回避するためかどんな馬鹿な被選挙人でも選出されれ
>ば良しとし、その国会を最後の砦としたがる。問題はあるものの一応理屈は通った姿
>勢かもしれない。
>
>基本的な事として、オッサンの話は幸福を追求する個人ともう一人の幸福を追求する
>個人とのぶつかり合いを意識していない。そしてそれが多人数の中で起こることも
>さっぱり意識していない。だから<発端>だけ語っていきなり途中をすっ飛ばして現
>実具体的問題を抽象論で<文学的>に語って結論を得る。幼稚也。
>
>> 政党公認も、ファッショ的党の方針に反対すれば公認しない、これは個人の言
>> 論の自由、思想信条の自由を奪うもの、党内での反対意見を認めなければ、こ
>> の党は近代民制のフィードバック装置を麻痺させ、国民から乖離したファシズ
>> ム政党になりますね。
>
>誤りですね。国民から見れば政党制度の内部では各政党が完結性を持つ必要は無い。
>偏っていて当たり前だ。その偏った明確な政党同士の「合力」が国民にとってまとも
>であればよい。文句があるなら脱党して別の政党を作ればよいだけ。それよりも政党
>の明確性が欠如することのほうが国民にとっては迷惑な話である。
>
>> 多数決なら何でも民主主義というのは間違いです。
>> 人間の価値相対主義を基盤とする価値判断を保障し、少数意見には十分な忌憚
>> なき多数派勢力への言論批判の機会を与え、国民に、完全情報公開の場をあた
>> え、聞かせ、見せて、小数意見が言論で批判して多数勢力に成長する可能性を
>> 保障する政治でなければ民主主義とはいえないのです。
>
>何度も言うように心構えを説くものとしてはまとも。しかし、それが心がまえに止ま
>らず実際にもそうしろというのは制約された時間と機会を前提にする実用的意見とし
>ては馬鹿げたこと。「保障」と言うけれども具体的にはどうしろと言うのかな?これ
>を聞きたいもんだ。かたれないはずだけどねそれとも単なる修辞的文言かな?
>
>> なんでもかんでも多数
>> で封じ込め、少数意見をさらに少数勢力になるように押さえつけるような手法
>> はファシズムです。
>
>少数意見が多数意見になるまで一つの些細な物事を決するのにも30年か50年待て
>と言うのかな?(大笑い)
>
>> いくら国民投票をちらつかせても、赤頭巾ちゃんのおばあさん。よだれをたら
>> した牙がみえみえ。
>
>的外れな比喩を語って誤魔化すんじゃないよ、オッサン!欠点を考えたらきりが無
>い。「ベター」の積み重ねが重要。オッサンの考えは「保証」しろ、とか「機会」を
>あたえろとか「場」を与えろとかで済ませているけれど、こういうことは保障などし
>ないし、機会など与えないもの。それでもどうにかしたいとの考えで思考すべきもの
>なんだ、って誰かも言ってたんじゃないのかな?ここは<文学論>を語る所ではな
>いって何度言えば済むんだい?のう、オッサンよ!
>
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>みんなのケンちゃん