iizuka wrote:

>  なにしろジーコのサッカーはまず個人ありき。最後にも個人あり
> きなわけです。問題は全て個人の能力に帰結してしまう。

最初に個人ありきというのはトルシエも同じでした。トルシエはその「個人」に
対して組織プレーを求めたんですが、やってみると、そもそも最初にくるべき
「個人」が無くておどろいたんですね。

# まあ、その前が南アフリカとかブルキナファソとかの
# 個人オンリーの国の監督だったから、しょうがないん
# ですが。

で、あまりの「個人」の無さにあきれて、個の確立からチーム作りをはじめない
といけなかったわけです。そのおかげで、在任中合宿に呼んだおびただしい数の
選手の中に多少の「個人」が芽生えたのが、トルシエの一つの功績でした。中村
なんか、あれがなければイタリアに行ってまともに試合中のコミュニケーション
が取れなかったんじゃないかと思います。

トルシエは「個人」があることを前提にその個人を殺して全体の約束事に奉仕す
るようなチームを作ったわけです。「個人」があることが前提だから、約束事で
縛っても、ほとばしるような「個人」の力は否応なく現れて、そこに個人と戦術
のバランスが取れるだろうと思ったわけです。でもそれは達成されなかった。
チーム内の数人を除いては付け焼刃の「個」でしたから、やっと最後の試合で約
束事の縛りを越えようとしたところでトルシエの任期は終わってしまいました。

ジーコは、そんなありさまを見ていますから、別のアプローチを採ったんです
ね。つまり、「そんなら、約束事自体与えるのをやめてしまおう」というわけで
す。与えればそれに縛られるのは見えていますから、一応「個」があって、それ
ができそうな連中をかきあつめて、最初から最後まで自分たちで考えさせること
にしたんでしょう。それじゃヨーロッパ組偏重になるのも、ある程度しかたがない。

>  個人に頼ってる分、個人が変わるとサッカーが変わってしまうの
> は、前から指摘されてる問題です。

ジーコの理想は、選手が変わっても変わらないサッカーができることだと思いま
す。ただ、こんなやりかたじゃ「理想」に達するまで時間がかかってしょうがな
いわけです。ドイツ大会の決勝戦で完成するようなチームを作ろうとしているん
だから。

たしかにアジアカップでは決勝トーナメントでチームが完成しましたが、ワール
ドカップとなると話が違う。日本の実力じゃまず一回勝つことからして大変なの
に、グループリーグに入る前に完成してないチームなんて、見てる側は不安で
しょうがない。だからつい、大会前にある程度安心させてくれたトルシエに郷愁
が募るんですが、でも、いつも本大会決勝でやっとチームが完成するブラジル代
表を知るジーコは、そのあたりなんとなく楽観しているフシがあるんですね。


> 「ジーコは選んでるだけ。あとは個人の問題」か、
> 「戦術をしないことからして、ジーコの問題。他もまたしかり」か。
>  さてどっちかね。

それを「問題」とすら思っていないところがジーコなんですよ。

> #「そもそも協会が悪い」というのもあるなぁ。

悪いは悪いけど、それはジーコの悪さとはまた別の悪さですね。

萩原@グリフィス大学