> この本当のところは法自らは一
> 切語らない。

法は、キリスト教の神と同じで自分では話せない。人間におまえはないと言われ
ると
恐れおののいて死んでゆく。


> 自分達の存在とその存在形態には何一つ欠点がないかのように、担い手の自分
> 達にその原因が有ることは伏せて決して語らない。それを国民はさも実しやかに正義
> を極力追及するのが法であるかのように進んで誤解し(殆どが紛争の処理に重点が置
> かれてそれ以外は何もないという場合でさえ)<偶像視>するかのように扱ってし
> まっているのかもしれませんね。

そうだとおもいます。裁判はきちんとおこなわれていると思い込んでいる。
思い込まされている。司法ギルドはそうしないと商売あがったりになりますから
ね。


> それとこうは考えられないのかしら。実際に裁判が提起されるかどうかは別としてそ
> れ以前に於いても法は活動しているわけで(行為規範)

行為規範としての法律ーーーなんてのは、法律本や法学部で教えているありもし
ないことです。
あると思い込まされている。実際に行動し、判断(法的に)するときにわかりま
す。
ーーー判断ができなくなってしまうーーー。判決がいい加減だから。
裁判官は、毎度毎度自由に(勝手に)、法律によらず、判例によらず判決してい
るのです。
私は、20数年間たくさん裁判をしていますし、法廷は数百回出席しました。そ
の結論です。
証拠多数有り。


>この規範は常に一瞬一瞬が正
> 当性に関する暗黙の批判にさらされているはずだから、時が嵩めば嵩むほどこれが重
> 圧になって返って来る。

裁判官は、そういうことは感じていませんよ。唯我独尊。だけど、ホームを歩く
ときはレールでない側を
あるく。背中おされないように。いつも実は、びくびく生きている。殺されない
ように。
裁判官の離職率は25%です。4人にひとりは途中でやめている。月給27万円
〜130万円だというのにね。

> とでも言おうか、そんな重圧に法が耐えられなくなるのを防ぐという趣旨もありそう
> な気がする。つまり、<法の逃げ>ですね。

法なんて物は、所詮人間が作った物。法は、くるくる変わる。文章で表現しても
決して100%
完璧にはならない。


> 当方は、法にさえ逃げの側面がある以上、人間社会たとえばニュースグループでの議
> 論に於いても<やり逃げ>が実しやかに行われるのも致し方のないことかな、と思う
> 今日この頃ですね。(笑い)


法の逃げというよりも、「法にかかわる人間の逃げ」でしょうね。法はスタティ
ックなもので
しょせん、人間がダイナミックなもの(生命体)だからでしょう。

ところで、裁判したことありますでしょうか?

まつむら