河野真治 @ 琉球大学情報工学です。

In article <2r6panF165ti3U1@uni-berlin.de>, kaz hagiwara <kazhagiwaranospam@yahoo.co.jp> writes
> その結果を材料にして、そのとき「国益」云々を言っている政府を支持するかど
> うかを個人個人の責任で決めるってことでしょうか。

結局は、一人一人が何をなすかっていうことになるわけだけど、

     個人としての選択
     企業の一員としての企業の行為の選択
     政府の一員としての政府の行為の選択

ってことになるわけですよね。で、本来は、それらを制約するのは法律だけ
な筈で、その法律を決めるのが議員であり、議会なわけですけどね。

> 国ってのは、個人参加型の集団であればこそ「多数決」でなきゃ動かないものな
> んですが、その多数決を「形ばかり」のものにしようと、日々考えをめぐらして
> いる人たちがいるわけです。

多数決にも色んな段階があって、

      世論を構成する一人一人の軽い選択
      より具体的な行為や規則を決めるための専門的な選択
      その間を埋める方針みたいなものを決めるための選択 (*)

等があります。

> ばかり」の多数決に誘導されやすい。そんな時、国政の参加者(有権者)が「個人
> の利益」を冷静に考えて「国の利益」と天秤にかけるのは、そうは問屋が卸すも
> んか、という自己防衛の一手段になりうる、と。むろんそれだけじゃまだ心もと
> ないんですが。

手段だとするなら、それは、手続きと拘束力を持たないとだめだと
思う。今の日本の民主主義的構造に、それがあるかどうかですね。

でも、この一連の過程で、国益ってのは、あんまり役割がないと思う。
それは、(*)の段階で出て来る曖昧なスローガンみたいなものかな。

実際には、国益は、統計みたいなもので計るしかなくて、

     GNP が増せば良い
     所得が多ければ良い
     環境が良ければ良い
     人口が多ければ良い
     領土が多ければ良い
     国際関係が良好がならば良い

など、バラバラであって、しかも、この統計自体には実は「良い悪い」
は関係ない。「良い悪い」を判断できるのは、巨視的統計ではなくて、
微視的統計だけです。まぁ、その一部を国益と言い立てるのは、便利
何だろうし、ひっかかる奴も多いわけだが。

そのあたりの微視的統計と巨視的統計を結ぶのが政策なわけだけど、
その因果を理解するために、マスメディアとか教育とかインターネ
ットとかが何か出来るのかとか考えると.... 割りと絶望的な気も
します。

で、諦めて誰か頭の良い少数の人に任せちゃえって思わないでもな
いんだけど、それに耐える程の人徳を人間は持ってないですからね。
天才が考えたってうまくいくわけでもないし。結局は、民主主義の
名の元に馬鹿な議論で、一貫しない政策をとり運を天にまかすって
方が、ましだってのが、なんか不思議。

微視的な「良い悪い」を基準するという意味では基本的人権という
が最低条件になる。そういう意味で、「基本的人権 = 国益」って
いう主張も成り立つのかも知れないですけどね。

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Shinji KONO @ Information Engineering, University of the Ryukyus
河野真治 @ 琉球大学工学部情報工学科