佐々木将人@函館 です。

書いてみたら長くなったんで
まず冒頭にミニバージョンを書くけど……。
「表現の自由」の内容だけが明らかになればそれでいいのと
「表現の自由にあてはまるとどうなるのか」
という「要件と効果」の両方を明らかにするのとでは
同じ「表現の自由」という文字列を使ったって
全く別物を指しているんだということはまず真っ先に理解してください。

>From:ABE Keisuke <koabe@mars.sakura.ne.jp>
>Date:2005/05/10 20:27:38 JST
>Message-ID:<koabe-E2035A.20273810052005@news01.sakura.ne.jp>
>
>それで、岩波、国会図書館、amazon.co.jpによるJ.S.ミルの
>「自由論」の分類は、妥当性があるのですか、ないのですか。

そもそもミルの言う「自由」は
法学における「自由」ではないと考えています。
よって法学に入っていないのはそれ自体は妥当でしょう。

>私は、表現の自由は情報学事典の「表現の自由」の最初の文
>「内心における思想・信条を外部に表出する自由であるとともに、
>意見や事実、感情などの情報を伝達する自由」が、表現の自由を
>端的に示していると考えています。最初自分の言葉でと思って
>いろいろ考えていましたが、この1文がすっきりとまとまって
>いたので、引用しちゃいます。執筆者は山口いつ子になって
>います。
>
>山田健太「法とジャーナリズム」成果の冒頭には
>「自由に情報を受け、求め、伝えることを、『表現の自由』
>と呼んできたわけであるが……」とあり、こちらは、情報を
>受けることも含めていて、その点でよい書き方だと思います。

で、その場合の「自由」というのは
「(誰によっても何によっても)制限を受けないこと」
ではないんですか?
もしくはこれを読んだ人が
「(誰によっても何によっても)制限を受けないこと」
と誤解しているのではないのですか?

私はそこを批判しています。
全ての人間に同じように認めるのであれば
「(誰によっても何によっても)制限を受けないこと」
というのはあり得ません。
(このことはもう何回も何回も書いてきましたから
 もはや繰り返しません。)
「(誰でもが)同じように制限を受けること」
「制限の差によるの差別が発生すること」
のどちらかになります。
(もしかしたらこの両方かもしれない。)

そして「制限を受けること」を受け入れるのであれば
その制限の範囲こそが問題になるのであり
制限の範囲の議論をするのに「自由」という言葉を使うのは
私は妥当性を欠くと思います。
また制限の範囲が人によって違うのであれば
やはり自由という語を経由する必要性が否定されます。

もっとも上記引用部だけで引用部の筆者を非難するつもりはありません。
もしかしたら上記引用部の筆者は
単に「表現の自由」について述べただけで
それが侵害されるだとか守られるとか
そういうことは一切述べてないかもしれませんから。

そしてその「表現の自由」が示すものが
法律学におけるそれと一致している保障がいまだ示されていません。

>「法律学における表現の自由」って言っても、いろいろ
>あるんだなあと思いました。

気のせいです。
きちんと法律学を勉強すればわかることですが……。
正確に言えば(法律学ではなく)法解釈学において
「表現の自由」を議論する時
その究極的な目標は
「表現の自由」の意味内容を明らかにすることです。
そして意味内容を明らかにすることで何を実現するかと言えば
判断基準を提供することを実現します。
判断基準に結びつかないような意味内容を明らかにすることは
法解釈学の守備範囲ではありません。

他の学問でいくら「表現の自由」に何らかの意味を持たせたところで
それが法解釈学における判断基準を提供することに役立たなければ
それは結局別物ということになりますし
もし役立っているのであれば
それは法解釈学による変容を受けていて
別分野における概念とはやはり別物になっています。

具体的に示します。
情報学における
「内心における思想・信条を外部に表出する自由であるとともに、
 意見や事実、感情などの情報を伝達する自由」
というのは、判断基準に全くなっていません。
正確に言うと
この自由に含まれるか含まれないかということは判断できるでしょう。
しかし含まれたとしても含まれた結果どうなるかは
全く書かれていません。
さらに加えてこれに含まれるあるものは
法的な保護を受けますが
含まれる別のあるものは法的な保護を受けません。
情報学の成果であるところの
「内心における思想・信条を外部に表出する自由であるとともに、
 意見や事実、感情などの情報を伝達する自由」
なる定義は、法的には全然採用できませんし
仮に採用できた暁には
おそらく情報学による成果からさらに変容し
法律学によるそれとなっているでしょう。

「自由に情報を受け、求め、伝えることを、『表現の自由』
 と呼んできたわけであるが……」
も同様。

そして話を元に戻すと
法律学における表現の自由が
「判断基準を提供すること」のために
その意味内容を明らかにしようとしていることについては
法律学者は見事に一致しています。
いろんなものがあるように見えるのは気のせいでしかありません。

もちろんその判断基準の詳細について
説が分かれているのは全くそのとおりですが
それをもって「いろんなものがある」としか読めないのであれば
皮相的な物の見方だな……と言わざるを得ません。
……しかも私が問題にしているのは法律学内における学説の分かれが
  影響する話ではないし。

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