"村上新八" <shinpa@cronos.ocn.ne.jp> wrote in message
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>  今年は第二次大戦終結60周年に当たるために戦勝各国で、ぞくぞくと記念式典が
催されている。それには当時の敗戦国の首脳も参加し、祝っている。結構なことだ
し、その気持ちは分かるが、その根底に確たる歴史認識の哲学があるのか、と言う点
には大いに疑問を感じる。


疑問を感じるのは當然だらう。但し、「歴史認識の哲学」などではない。
戰勝國サイドの御都合主義による式典だからだ。

これから蘇聯のやることを見てゐればよい。
(支那も同じことだが、ここでは措く)
奴等にとつて終戰記念日は8月15日ではない。
昭和20年9月2日、スターリンは東京灣のミズーリ艦上での我が國の
降伏文書調印式に合はせて、「蘇聯國民に對する呼びかけ」、
所謂「戰勝メツセージ」をモスクワ放送を通じて發表した。

「・・・1904年の日露戰争での露西亞軍隊の敗北は國民の意識に重苦しい
思ひ出を殘した。この敗北は我が國に汚點を殘した。我が國民は日本が
粉碎され、汚點が一掃される日がくることを信じ、待つてゐた。・・・そして、
ここに其の日は訪れた。今日、日本は敗北を認め、無條件降伏文書に
署名した。南樺太と千島列島が蘇聯邦にうつり、今後はこれが、我が
蘇聯邦を大洋に直接に結び附ける手段、日本の侵略から我が國を防衞
する基地として役立つやうになることを意味する」

日露戰争への報復宣言、或は日本固有の北方領土と南樺太の奪取宣言
とでも云ふべき内容である。
スターリンは日本がポツダム宣言を受諾して降伏した8月15日を「降伏日」
と認めたくはなかつた。自分が下した北方領土進撃命令が未完成だつた
からだ。8月9日に日蘇中立條約を一方的に破棄し、對日參戰した蘇聯軍は
8月31日から北方四島侵攻を開始し、9月5日までに全てを占領して現在に
至つてゐる。

未だに北方四島を返還しない露西亞のことだ。「戰勝メツセージ」を發した
9月2日或いは占領を完全に終へた9月5日に對日戰争勝利60周年記念式典
をやるに違ひない。

我が國は決して戰勝國に振廻されてはならない。


>  日本は、戦後60年平和国家として一発の弾も撃たずに推移しているにも拘わら
ず、中韓から総理の靖国参拝や教科書問題をめぐって「歴史認識」で振り回されてい
るが、これも歴史認識としては偏っていると思う。
>  ロシアと近隣国との間の歴史認識にも齟齬がある。第二次大戦中、ナチスとソ連
とのキャッチボ−ルの球にされたバルト三国、同じく独ソ両国に国を引き裂かれたポ
−ランド、更に敗戦後数十万の日独兵士がソ連によってシベリアへ強制連行され、数
年という長期にわたって劣悪な環境下で過酷極まる重労働を強制された、ジュネ−ブ
条約違反の事実などに対する歴史的評価の問題もあるのである。


露西亞人研究家の調査と對日理事會シーボルト代表(米國)によると、
シベリアに抑留された日本人は、通常言はれてゐる抑留者60萬人、
死亡者6萬人より遙かに多く、抑留者は軍人と民間人を合はせて
272萬人以上、餓死、凍死した者は37萬4千人を數へる。

そして、貴殿の云ふ「数年という長期」どころか、11年間に及ぶ
不當行爲だつた。
昭和31年12月26日、舞鶴に1025人が最後の集團歸國をし、
個別の歸還は昭和37年7月に最後の2名が歸國するまで
17年の長きにわたつたのである。

ハーグ條約第20條
「平和克服ノ後ハ、成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本國ニ歸還セシムヘシ」

ポツダム宣言第9條
「日本國軍隊は完全に武裝を解除せられたる後各自の家庭に復歸し
平和的且生産的の生活を營むの機會を得しめらるべし」

日蘇中立條約を破つて北方領土に侵攻したのみならず、米英支蘇共同で
通告してきたポツダム宣言を自ら破つたのである。そして北方領土は
未だに返さない。


>  このように、歴史には表も裏もある、その後の推移も、時代精神や意識の変化も
あるのだ。これを総合的に位置づけ判断、評価し、反省すべき点、その反省の上に
立った実践状況の判断などを綜合した歴史認識の哲学が確立されねばなるまい。一方
的に戦勝国サイドの勝者意識や被害者意識で判断されてはならないはずである。 


哲學で何うにでもなるのであれば、北方四島は當の昔に返還されてゐる。
哲學は國益追求の國際社会には齒が立たない。


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大和猛夫