今年は第二次大戦終結60周年に当たるために戦勝各国で、ぞくぞくと記念式典が催されている。それには当時の敗戦国の首脳も参加し、祝っている。結構なことだし、その気持ちは分かるが、その根底に確たる歴史認識の哲学があるのか、と言う点には大いに疑問を感じる。
 日本は、戦後60年平和国家として一発の弾も撃たずに推移しているにも拘わらず、中韓から総理の靖国参拝や教科書問題をめぐって「歴史認識」で振り回されているが、これも歴史認識としては偏っていると思う。
 ロシアと近隣国との間の歴史認識にも齟齬がある。第二次大戦中、ナチスとソ連とのキャッチボ−ルの球にされたバルト三国、同じく独ソ両国に国を引き裂かれたポ−ランド、更に敗戦後数十万の日独兵士がソ連によってシベリアへ強制連行され、数年という長期にわたって劣悪な環境下で過酷極まる重労働を強制された、ジュネ−ブ条約違反の事実などに対する歴史的評価の問題もあるのである。
 このように、歴史には表も裏もある、その後の推移も、時代精神や意識の変化もあるのだ。これを総合的に位置づけ判断、評価し、反省すべき点、その反省の上に立った実践状況の判断などを綜合した歴史認識の哲学が確立されねばなるまい。一方的に戦勝国サイドの勝者意識や被害者意識で判断されてはならないはずである。 
 村上新八