解散の正当性に関する素朴な疑問(その2.政治家の判断の重さ)
9月9日、参議院で郵政民営化法案に反対した自民党議員が「郵政民営化法案に関し、今度の総選挙結果で示された民意に従う」あるいは「総選挙で与党が過半数を獲得した場合、郵政民営化法案に賛成する」ことを表明したとの報道がありました。
該議員自身の発言が曖昧であったのか、あるいは、報道する側の表現が曖昧なのか、現時点で該議員の表明が上記のどちらであるか私には正確に読み取れていません。
いずれにしても、郵政民営化法案に対し翻意があり得ることを表明したものと読み取れます。
ところで、解散前に衆議院における与党の議席数は過半数である241議席を超えていて、政府自身が提出した「郵政民営化法案」も既に可決しおります。
にも拘らず、今度の総選挙で与党全体で解散前よりも少ない過半数(241議席)を獲得すれば、国民の支持を得たものとする考え方は総合的に見た場合、いかがなものでしょうか。
さて、本題に入りたいと思います。
「民意に従う」とは聞こえ良い言葉ですね。多数意見に従うことは民主主義の基本的なルールだからなのでしょうか。
しかし、仮に300票の賛成に対し、180の反対票があった場合、180票の意見は全く無視されるべき意見なのでしょうか。
少数意見も「民意」という集合の形成に寄与している部分集合であり、反対票が存在することを許さないわけにはいかないでしょう。
多数意見に従うことは当然でありますが、小数意見で採用されないとしても政治家として確固たるビジョンに基づいた政治信条を堅持することまでを否定されないでしょう。
このように考えるとき、公の場で表明した判断を翻意することは、その人の判断の軽さを示していることになるのではないでしょうか。
参議院の採決結果の影響を受け、既に日本は動いてしまっているではないですか。そのことに対する責任の取り方が翻意することなのでしょうか。
そのような人に権力を委託することに強い疑問を感じます。
政治家はその政治家固有の国政に対する確固たるビジョンに基づいて行動することが必要だと思います。
なお、そもそも、現在の日本の政党政治における多数決は妥当な手法なのか疑問を感じるときがあります。
なぜなら、一票が自由な一票ではなく、拘束された(条件付)一票であるからです。
独立事象と条件付事象とでは生起確率が異なるでしょう。
多数決は各一票が何ものにも拘束されず、全く自由かつ対等であるときのみ有意義となる思うのですが。
重みの異なる一票を寄せ集めた単なる過半数は、重みを評価した過半数とは異なるでしょう。
少数党の提出法案がほとんど常に不採用となることがほぼ確定的に予測できるような採決方法が本当に最良の方法なのでしょうか。
何か別の方法はないのでしょうか。
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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