みずのけ「お江戸でござる篇」
ここは天下のお江戸は日本晴れ、公方様のお膝元です。
天保の改革で有名な出羽守水野忠邦も政争に敗れ失脚遠江国浜松藩
からみちのく深い出羽国山形藩に転封になり、今では息子の和泉守
水野忠精に代替わりしています。
その水野家、つまり山形藩下屋敷では、折りしも水野忠精の養女と
なる姫様を迎える仕度に大騒ぎをしていたのでした。
玄関の方がにわかにざわつくと、水野家の三太夫が小走りに萩の花
しだれる庭に面した廊下伝いに姫君の到着を知らせて回ります。
それから更に小一時間してからようやく屋敷奥の書院造りの広間で
水野忠精の実娘の次女が矢羽根紋の女中たちとお付きの者にかしず
かれた姫を迎えました。
「お初にお目通りいたします
この度養女とさせていただきました夢絵と申します」
「おお、さてさてこれは愛らしい姫様じゃ
長旅さぞやお疲れのことでございましょう
道中はいかがでした」
近侍の女中より夢絵姫に和泉守水野忠精様次女うんぬんと説明的な
紹介が入る。
「はい、妾故郷の羽後より海沿いに北前船にて越後から陸路三国峠
を越えて参りました。
ほんとうに国を一周したような心持でございます。
幸い穏やかな海とよい天候に恵まれまして難儀もなく到着とは、
まことに御仏のご加護と感謝いたす次第にございます」
「それは吉兆なこと、
ところで父忠精は老中職でしばらくは上屋敷より戻ることない故
当分ゆるりと旅の疲れを癒してくだされ
そのうちに妾と江戸見物に参りましょうぞ」
「お姉さまのありがたきお言葉、旅の疲れも飛ぶ喜びでございます」
一通り女中達の挨拶など済み、他に仕度ある者などがひとりふたり
と出て行くと、普段姫の回りで世話をする気心知れた女中たちだけ
が残り、ようやく寛いだ空気となる。
「姫もだいぶ江戸の言葉になれていらっしゃるようですね」
「そんなことございません
でも、幼い頃からお江戸でお城勤めをしていたことのある乳母に
それはそれはきびしく躾られました」
「それは重畳ですこと
では妾は姫に江戸の遊興を指南することにいたしましょう」
「たのしみでございます
ところでお姉さま」
『お姉さま』と呼ばれて次女の姫はなにやら感慨深そう、というか
これで「宇治十帖ごっこ」ができるじゃんなどと考えている。
「いや良いものじゃな
もう一度『お姉さま』と呼んでは呉れぬか
妾は今まで姉を『お姉さま』と呼ぶことはあれど『お姉さま』と
呼ばれたためしがないのじゃ、もう一度」
「でわ、もう一度
お姉さま、いちばん上のお姉さまのお名前を
まだ伺っていないのです、なんとおっしゃるのですか」
「う、姉上の名か...」
「はい」
「ば、ばびる2世じゃ」
「へ?」
その時風を切る音がして、象牙造りの大きな扇子が木立を滑空する
ムササビ、または雨上がりに軒端で蟲をとらまえるツバメの様に飛
んできて次女の額に命中する。
「いてっ」
驚き振り返ると、座敷に入る廊下に長女の姫が不動明王の様に次女
を睨んでいる。あわてて夢絵姫は低頭傾首する。
「えい、この妹は、妾をそそのかして
三の間で待ちぼうけを食らわしたうえに
新しい妹にわけのわからんことを吹き込みよって...」
「なにをそのようにお怒りですか姉上様...」
怒ってみたものの初対面の妹の手前という状況を思い出して長女は
すこし態度を和らげる。
「そう畏まらずともよいぞ、夢絵姫だったかな
道中お疲れであろう、この屋敷は自分の家ゆえ寛がれるように
妾はこのイタズラモノに説教があるゆえ...」
「いえ、お姉さまにご挨拶を遅れましたこと平に...」
「そういう堅苦しいことは抜きじゃ
ところで居室はお決めになられたのかな」
そこになにやら不動明王にふんじばられた邪鬼のように長女に捕え
られた次女が口を挟む。
「それは妾が『木犀の間』がよろしいかと用意させました」
「なに木犀の離れとなっ」
「日当たりもよろしく
なによりも晴れた日には庭の築山越しに富士山が拝めます」
「それは駄目じゃ」
「へ?」
なにやら事情がありげに長女はその場に座すると話しはじめた。
「そのむかし関白を継いだ豊臣秀次は文禄四年に秀吉公への謀反の
罪で切腹せられた時、勢い余った秀吉公は秀次の妻達と子供をも
三条河原に引いたてて無残に殺してしまったことがあったのじゃ
そして、秀次の妻の中に出羽国山形藩最上義光の愛娘で、秀次に
嫁いだ許りの駒姫齢十五歳がいたのじゃ
愛娘の刑死に病に倒れた母親も亡くなり最上義光は二人の菩提を
弔うために山形城下に専修寺をうつし城から駒姫の居室を移築し
て供養したという
実は、この木犀の離れは駒姫ゆかりのものでな
嫁入り前の娘に使わすことまかりならぬのじゃ」
「おばばさま、そのようなお話は妾はじめて聞きましたが...」
「誰がおばばさまじゃ
知らぬも道理、これはこの屋敷というか山形藩の秘密
長年ここに奉公する者ですら口にすることを躊躇う禁則事項じゃ」
「それでどのような祟りがあるのですか」
「うむ、秀次に嫁いだ為に刑死した駒姫の無念と
愛娘を嫁がせたばかりに母娘ともに喪った最上義光の悔恨で
娘は嫁に行き遅れるのじゃあ」
実はこの話は、長女が新しい末の妹を怖がらせようと即興で考えた
お茶目な作り話だったのですが、その場に居合わせた者たちが全て
真に受けてしまいましたものですから、それからというもの山形藩
の下屋敷には女中が居着かなくなったということでございます。
まことに、「綸言汗の如し」なのでございました。
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のりたま@ホンキにしないように
所詮理系ですから重箱の隅突付いたりしないこと
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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