民主主義は、その構成員の多様性を、無条件で認める、制度である。
 そして、ある程度の多重性も、許容されなければならない。
 それ故、甚だ、可笑しな、現象も、露呈する。
 それこそ、擬態。
 そのパラサイトが、パラサイトに、パラサイトしたり、パラサイトされたり。
 そして、標榜する、その主義主張、全く、出鱈目。
 そもそも、その生物としての本性が阻害され、経済的な階級の闘争がエスカレーションなんて、その唯名論的弁証法の成果である、その形式論理学的な演繹の証明を、全く、裏切る、その現実。
 それこそ、相変わらず、政治的に、日本人の振りをする、朝鮮人の多いこと。そして、彼らが、拉致問題にも、加担して居るのは、間違いない。
 勿論、そうした日本の民族問題を語る場合、端から、民族浄化なぞ、非現実、しかし、単純に、単一民族として仕舞うのも、現実、難しい。それ故、新しい分別が、必要。
 それこそ、歴史的再検証、である。
 その過去の検証は、その日本の未来の戦略のためにも、緊急の課題。
 そして、近頃、その教育現場での不祥事、頻発。
 そもそも、生物学的には、人類の種族保存のため、その虚栄喧噪の外部世界から、隔離して、その学園に、聖域の自治。
 しかし、その聖域には、そもそも、累卵の危険。
 そして、発生する、事件、その外部の常識では、間違いなく、犯罪。
 勿論、その聖域の自治の精神を尊べば、検察の検証は、そぐわない。
 原則として、他律の法律に拠るのではなく、その自律の倫理道徳で。
 それ故、その名指しされた、4名の女生徒の父兄が、その学校側の判断に拘らず、率先して、謝罪、した。その新しい時代の分別、賞すべし。
 相変わらず、他律の判断を待てば、その多重性の罠に、陥り、その未来の自由は、喪失の運命。