古寺です。

ぢぃ さんwrote:

> 昔は地平ホームでも機回しが出来たような。どの時点で出来なくなったかご
> 存知の方、おられませんか?増発のために機回しを殺して変わりに尾久まで
> 推進運転可能な複々線にしたんじゃないのか、とか勝手に考えたりしてます
> が。

投稿を拝見した晩に、ちゃちゃっと検索した所では、関東大震災後の
復興以後は、ほぼ現状のような頭端式を確立していたらしき(駅舎と
ホームの位置関係から)話が載っているだけで、それ以前が良く分か
りませんでした。復興工事を是非やりたいと落札したとかなんとかの
建設会社のコンテンツが一番詳細でしたが、さすがに配線レベルの
変更点とかは無くて...
対象以前から配線図を応用な記述が雑誌に有ったとしたらピクトリア
ルだろうけど、持ってた覚えが無いなぁ... と。そこでその日は寝
ちゃったんですけど、週末の今日、街の本屋まで出かけたら、ピクト
リアルが上野駅特集でした(今月とは)。

冒頭の概論的な記事では、開業時の配線形態とかにはあまり触れず、
推進回送についての所で、1924年に王子経由で尾久の前身の操車場へ
の回送が始まった話からになっています。
パラパラとめくって行ったら、「上野駅をめぐる線路配線 今昔」
(祖田圭介氏)に開業後、大宮まで複線化されたという1893年の配線が
出て来ました。
頭端ちゃぁ頭端なんですが、駅本屋に突き当たってるうち5線は貨物
用みたいでホームが無く、上野山側ににゅーっと伸びた1面2線は、両
側に機を出せるようになっています。上野山側のさらに先は機関庫・
客貨車庫のエリアと。
日暮里方に引上げ線群と「客車場」なるものも有るんで、突き当たり
に入った貨物などは、そっちに押し込んだり、逆側に機関車を付けて
引き出したりしたのでしょうね。
以後旅客ホームの増設が繰り返される話として、1905年に常磐線乗り
入れ用として東側に1面と有りますが、機回しが潰されたかどうかの
記述は有りません。
上記のような引上げ線群や、開業時の東京駅みたいに機関庫、客貨車
庫が脇に併設という形態からすると、機回しして即折り返しが出来な
くとも、「入換え用機関車」が大活躍だったんじゃないかという想像
も出来ます。
また各記事を見ていて思い出しましたが、各線路の間の頭端側に、短
い荷扱い用のホームが挟まっていたりしましたよね。で、その先のス
ペースは、機関車待機用らしき短い線が行き止まりになっていた...
らしきは、私の古い記憶だともう、痕跡程度だったような気がします。
今回のピクトリアルには、昭和7年の配線図で全地平線を、旅客ホーム
と荷扱いホームが交互に挟み、荷扱いホームの先には短い行き止まり
線路というのが掲載されてます。
以上を総合すると、行き止まり駅で必ず機を回す必要は、そもそも無
いのだなと。

この記事と冒頭記事の両方に尾久への配線の変遷は出ており、王子か
らの単線→日暮里からの単線→上野〜尾久の回送複線により方向別
複々線という順序のようです。
上野〜尾久の回送線の複線化により方向別複々線になったとの事です
が、この状態から次の井掘の立体交差に繋がる話での運転方法の説明
では、日暮里駅構内のポイントで、地平高架と、回送・本線の平面交
差をやっています。事実上、上野〜日暮里は地平・高架の複々線に既
になっていたようです。
この日暮里駅の平面交差(私の子供の頃は東北本線ホームがありました
が、跨線橋からの階段が外され、全て通過扱いでした)1960年代前半に
問題となって、複々線を尾久駅直前の井掘第2まで延長。尾久客操には
この1.1km手前の井掘第1で両線から入れる分岐として、立体交差で入っ
て行く。これで地平・高架と、尾久回送が一点で平面交差する事無く、
単純分岐×2になったのがヨンサントウの直前の9月ということです。
地平用・高架用の線路の間を、回送線が沈んで行く区間が数百m有りま
すが、ここで速度が一段と落ちた旧型客車の推進回送を抜き去ること
がままあったので、回送線別線という認識が残っていたようです。