ここでのGON氏の分析(勿論危険性や可能性を含めた)は妥当なものであろう
か、、、?私自身は妥当なものだと思いますね。もし、読者の中にいやこんな事
は起きないし、心配する必要もない、と考える向きの方々が居られましたなら
ば、その方々はとても「のんき」な方々なのではないかと私は考えます。

そもそも小泉政権が誕生する以前から自民党の独裁はかなり続いていた。途中わ
ずかに一休み期間があったに過ぎない。このときの国民はどんな思いでこの「独
裁」を受け取っていたのでありましょうか。効果は無いにせよこうでなければな
らないとかああであって欲しいとか、さまざまに意見や感想を持ったでありま
しょう。少なくとも「独裁」を変えようとして。

ところが、皆さんを含む国民は、そこで自らあれこれ考えた事を、ここでのGON
氏の予測や懸念も含め、実際の政治生活の中に生かすことをしない。ここfjでの
議論を見ているとそれがよく分る。こんな事をいつもやっていてよいものだろうか?

「郵政民営化法案に関する国民の意思を問う」、なるほど、素晴らしく聞こえの
よい言葉ですね。ここfjでさえこの言葉に“ほんのり”してしまった方々が多かっ
たのではなかったか。考えても見て欲しい。単なる一法案に関する国民の意思を
尋ねる事を大幅に越えた結果を招来する羽目になったことを。衆議院の解散を是
としてしまったときにはそこで行なわれる総選挙がかかる結果をもたらす可能性
もあり、との視野に立って、逆に改めて解散の是非を検討しなければ無かったの
であります。残念無念、という気持ちをこめて、私は、選挙結果が既に出てし
まった今とはいえ、皆さんが多かれ少なかれ信じてしまった、

           “国民の意思を問う”、

に、今後の誤りに気付いて欲しいとの一念から、抵抗を試みずに済ますわけには
いかないのであります。題材を幼少の頃誰もが耳にしたことに求めましょう。そ
の前に、この様な「文学的」表現が何時から金科玉条のごとく正当化事由に掲げ
られるようになったかを明らかにしておく必要があります。昭和23年11月8
日の朝日新聞で、宮沢俊義が

     「解散を、議院に対する懲罰といった非民主的なものと
      は考えられない。それは、選挙に訴えて選挙民の審判
      を求めるための手続きで、本質的に民主政のための制
      度である」

との趣旨を述べているのがその一つであります。確かに、「解散を、、、選挙に
訴えて選挙民の審判を求める」とする点はその通りで、少しも問題ではないよう
な感を受ける。しかし、私見の切っ掛けは以下の二点であった。

   (1)民主政の乏しい時代を生きた結果、「選挙に訴えて選挙
      民の審判を求める」、を言うのと、民主政が原則の時代
      に、「選挙に訴えて選挙民の審判を求める」を言うのと
      では、その意味合いはやはり異なるとはいえまいか、

   (2)この論法では国民に丸投げ的に意思を問いさえすれば全
      てが正当化され、日本国憲法は、そのような抽象化され
      た国民の意思を問う行為にどれだけの価値を抱けるもの
      なのか、

そこで取り上げたいのが幼少の頃耳にした、直接選挙と間接選挙の問題でありま
す。もっと広くは直接民主制と間接民主制であります。小学生の頃はどちらかと
いうとアメリカ合衆国における大統領選挙を良しとした。しかし、中学生になる
と、国民をどのようなものと想定するかでもって間接民主制の価値回復が図られ
た記憶がまだ残っている。日本国憲法は「前文」で、明確に、

     「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じ
      て行動し」、

とし、代表民主制を採用することを明言している。他方、日本国憲法は一部、地
方公共団体については憲法第93条第二項で、

     「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるそ
      の他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを
      選挙する、

として直接民主政を採用している。ということは、日本国憲法は「直接民主政」
を「知らない」のではなく、「知っていて」尚且つ「国政」においてはそれを敢
えて採用しなかった、ということになる。

では、何故、日本国憲法即ち国民は直接民主制を捨て代表民主制を採用したか。
はっきり申し上げれば、

      個々の具体的政治問題などを国民は知らない、あるいは、
      そこから導かれる国民の利不利を理解する事などできな
      い。できるのは、自分たち国民の立場を理解し、なにが
      より利益に成るかを考えられる「人材」を議員として選
      ぶ事だけだ、つまり、国家の必要から自分たちが不利に
      扱われる場合においても、それを選択し、行動に移す場
      合には自分たちが行なうよりも議員が行なった方が自分
      たちに都合のよい結果が返ってくる、

という考え方が基底になっていた。だから間接民主制を採用したのであります。
そしてこの考え方は実質的に見ても間違いではないのであります。馬鹿も馬鹿で
ない者にも同じく一票が与えられ、そうやって直接政治が行なわれた場合の方が
危険である、日本国民は憲法でこのように思案したのであった。日本国憲法はア
メリカなどよりは遥かに知性豊かなところがある。

にも拘らずだ、宮沢は此の点に思い至らずにか、なんでもかんでも国民に丸投げ
すれば、国民のためになるとした。一方では国民=憲法を無視しておいて他方で
は文学表現で奉る振りをした。以後多くの国民はこれに騙されて来て今日に至っ
ている。安井@東大氏もその一人であろうか。

今回の郵政民営化法案を国会で可決させるために選挙を招来させた行為は、総体
としての国民の力のの及ばない内容のものを力の及ばない国民に提示したという
意味で、「的外れ」選挙であった。だから、このような「的外れ」の判断を国民
から受けた民主党やその他の政党は、いかに今回の選挙に敗れたとはいえ、恥じ
る必要は毛頭無い。

      郵政民営化の可否を問うたのに、自由民主党の圧倒的多
      数を招来し、「独裁」を招く結果になってしまった。政
      府与党の行動に賛意を表していた人々にさえ、呆れかえ
      させる結果となったのであります。

このように、「的外れ」なものからは、「呆れたもの」しか出てこないことを国
民は今回の選挙で学ぶべきではないか。

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太宰 真@URAWA