古寺です。

NIDE Naoyuki さんwrote:

>   これも「地形図でたどる…」にあたるとよいかと思われます。運転系統が二股
> だった当時は、新津田沼から藤崎台(前代の新津田沼で、京成津田沼に向かう線
> の途中)までの構内側線がありました。古寺さんの見た「1線だけ京成の津田沼へ
> 向かい」は、実はそれだったのではないかと思います。ただしこの線は、藤崎台
> へは北向きに入っています(京成津田沼方面とは逆向きになります)。

うーん一つ前の段階で、なんか記憶に自信がなくなって来てたのですが、
これはひょっとして自分は結構貴重になる場面に出っ喰わしていたんじゃ
ないかという気がして来ました。

#親に千葉中部一周の散歩に連れて行ってもらった時の、木下→成田がSL
#じゃ無かった(後に現役だったと知った)ことの恨み節を何度か書いてい
#ますが、こっちに関しては... 逆に自分の方が無くなった風景に触れさ
#せられてたのを気づいてないだけ?

>   この時代の地形図としては、1/2.5万「習志野」昭42改測(昭44発行)の津田沼
> 付近が、「地形図でたどる…」に掲載されています。これを見ると、新津田沼か
> らは上記の構内側線と別に、総武線に合流するような線形で途中で切れている線
> もかすかに書かれており、これが古寺さんの見た「踏切ともつかぬスペースを横
> 断して車庫へ」の方かと思います。鉄道連隊だったころはその先、総武線と並行

よく列車が頻繁に出入りしない基地(工場等)で、その鉄道施設の方に柵を
して、交差側を踏切扱いしないような場合が有りますよね。有名どころで
は銀座線の上野地上部の踏切とか、縮小されちゃったかなな西馬込工場の
先の方のとか。柵していたか明確に思い出せませんが、電車が有る真ん前
を雑踏が交錯していたというか、人が近くに行けたような気がしました。

> するようにして線が伸びていましたが、この線の一部を再利用したような感じです。
>   あるいは、1968年の運転系統再統一の直前ごろには、もう現在の新津田沼から
> 京成津田沼への線路の建設がかなり進んでいたのかも知れません。

先の記事で、
| 思い出とはいえあんまりいい加減な記憶で書くのもと思って、
| 新津田沼・昔・工場で検索したら、いいページが一番上に
| ヒットしました。
|
| http://hkuma.com/rail/shinkei2.html

と、検索結果を勝手に挙げさせて頂きましたが、この作者様からMailを頂き
まして。この話題の参考とするに更に詳しく書かれたページを教えて頂きま
した。

http://hkuma.com/rail/shint01.html

一旦、国鉄駅と離れてしまって京成の津田沼に乗り入れた時点で、京成が
津田沼第二工場を使い始めてるそうですし、枝分かれで3代目の新津田沼
が有った時点では、ここと藤崎台(2代目、旧新津田沼)の間に第二工場が
挟まる形態になっていたとの事ですし...
で、私は'69年の春には帰京して、東京の幼稚園に編入してるんですよね。
一番古い、セピアがかった(^^;新津田沼駅下車の思い出は、そのまま乗り
直して京成の津田沼へなんてするわけもなく(親に連れられてですから)、
国鉄への乗り換えの為に降りているはずです。
新津田沼どまりの電車という認識も、後に知った、津田沼〜新津田沼単線
隘路とラッシュピークが新津田沼までな事に依る折り返し運転の存在とし
て納得していたのですが。時期の整合を考えると、別線時代の新津田沼に
降りちゃってたのかな、これは...

#そうだったのか...って少しドキドキしますが、記憶映像(セピア^^;)が
#不鮮明すぎるのがちょっと悔しい所で。
##木下〜成田〜千葉〜船橋(成田線はDCと72形電車ですが、千葉〜船橋
##は国道14号経由の東京方面行き幹線バスでした^^;)のお散歩とか、
##房総一周の鴨川泊の旅とかの方がかなりはっきり覚えてるから、千葉
##時代でも初期の方の経験という気もするので...

ちょっと話を都合よく整合取ろうとしている予感もしますが... 皆さんか
ら色々ご教示頂かなければ、自分が生きた時代の新京成は2度の改軌も済
んでるし、ほぼ現在形が出来上がってたと信じ込んでいたままでした。
Mailも含めてフォローアップ頂いた方には感謝しています。