一言で言うと、下記の二つの話が混ざっていますね。

  (1) 必要性の話
  (2) 私(頼光)がコリアの併合をどう捉えているか

 なので、記事を分けます。
 そして、必要性の話は、fj.news.usage。

In article <bpppo7$6ej$1@news511.nifty.com>, 青龍 wrote:
>>  必要はあります。
>>  「問題にすることがおかしい」という主張のためです。
>
> 「問題にする」の対象が何かが明確でないのですが、
>それは後述します。

 明確でないと感じるのは、上述の通り二つの話が混ざってい
るからでしょう。<bpo2hj$li2$2@bgsv5648.tk.mesh.ad.jp> に
おける中心的論点は、必要性の話です。それ以外の話は、今の
場合、事例に過ぎません。

> 今回、史実をもとに主張しているのは私や兼松さんであり、兼松さん
>が半月城通信を引用したのも半月城通信にさらに引用されている教
>科書の記述をさらに引用するためであって、それ以外の半月城さん
>の価値判断を引用しているわけではありません。
> つまり、今回の場合、価値判断を行っているのは私や兼松さんであ
>り、その主張の前提となる史実を提示しているのは山川出版社です。
>半月城通信は山川出版社の教科書の内容を参照するために提示して
>あるにすぎず、今回の議論の直接の話題になっていません。
> もし、兼松さんもしくは他の方が、市販されている教科書を直接引用
>したとしても兼松さんの主張の評価には何ら変わりはありません。この
>兼松さんの主張・価値判断に際して、半月城通信の偏り問題にしても兼
>松さんの主張の評価に論理的な影響を与えることは出来ません。

 「直接引用した」ならば話が変わるという意味の指摘が「偏
向」です。「何ら変わりはありません」どころではありません。
従って、結論として、「影響を与えることは出来ません」は、
成立しません。

 要するに、ここで行われるべきは「偏向」の真偽に関する議
論であって、「必要ない」などという判断停止的な発言ではな
いということを、私は指摘しているのです。

 偏向していないと考えるなら、それを堂々と主張するのが議
論におけるあるべき姿というものです。「レッテル貼り」など
というレッテル貼りをするのではなく。

> # あえて、半月城通信の偏りを持ち出す意味を考えるとすれば、半月
> 城通信は偏っている、従って、それを呼んで資料として提示している兼
> 松さんも偏っていると主張したい場合でしょう。しかし、この場合、このよ
> うなレッテル張りの手法は議論の仕方としては感心できないことは既に
> 指摘しました。

 ここに「あえて」という単語があることから、冒頭に述べた
ように二つの話が混ざってしまっていることが証明されます。
 「あえて」ではなく、私が指摘したのはまさにその話です。
が、それをわざわざ新規に書き直すことで、私の指摘を理解し
ていないことが分かりますから。

 ちなみに単なる事実として、偏向した資料に基づく主張は偏っ
たものになるというメカニズムが存在します。まさかこれに異
を唱える人はいないでしょう。

 そして、このメカニズムの存在を無視し、「偏向」という指
摘をレッテル貼りだとして検討もしない姿勢は、議論の仕方と
して感心できるものではありませんね。

 一般論として、レッテル貼り自体は、議論の仕方としては感
心できないものどころか議論ですらありません。が、現在の事
例が「レッテル貼り」であるかどうかは別の問題であり、その
検討は常に必要です。
 検討をせずに「レッテル貼り」と断じてしまう青龍氏は、実
のところこの「レッテル貼り」を自ら実施しているわけですか
ら、これはダブルスタンダードというものでしょう。

>> # 一般論ですが、他人の事情に対して必要性無しと決め付ける
>> # ことは、自らの視野狭窄と狭量を宣伝するようなものです。
>
> 頼光さんが一般論としてその様に考えるのは否定しませんが、
>今回の場合にそれに当てはまるとは思いません。頼光さんが挙
>げた理由にも後述するように納得は出来ないからです。

 混ざった論点を整理して、考え直しましょう。
 なお、青龍氏の言う「後述」に対しては後述しますが、その
論法は誤りです。

 必要性の話に関する私の指摘は正しいのですから、まともに
議論をしようと考えているなら、納得するしか選択肢はありま
せん。
 もう一つの話についてなら、既に強固に自説が正しいと思っ
てしまっている以上、感情が納得しないことは理解しますから、
すぐにどうこうとは言いません。そちらは別記事で。

>>  兼松氏はその資料にもとづいて「武力による威嚇が韓国で行わ
>> れていた」と言っていますが、「問題にすることがおかしい」の
>> ですから、資料が偏向しているなら、「おかしい」ことの証拠と
>> なります。
>
> 「問題にすることがおかしい」というのは、頼光さんの主張にすぎま
>せん。その様な一方の主張を当然の前提にされても困ります。また、
>前述のように半月城通信は兼松さんの主張とは論理的に関係があ
>りません。従って、仮に 「問題にすることがおかしい」が正しいとして
>も兼松さんの主張を批判する際に半月城通信の偏りを問題にしても
>意味がありません。

 こういう話が出てきてしまうのも、冒頭に述べたように2つ
の話が混ざっているからですね。私がコリアの話をどう捉えて
いるかなど、必要性の話からしたらどうでもいい話です。

 私が言っている話は、「必要ない」とする青龍氏と(なんら
かの必要性があるからこそ述べたであろう)松田氏との間での、
必要性の有無における対立が前提です。そして私には「必要あ
る」と読み取れているのですから、松田氏の論理展開を前提と
するのは当たり前のことです。従って、これに対して困るのは、
困る方がおかしいと言えます。

 そして、「論理的に関係がありません」は、上述の通り誤り
です。

 更に、「問題にすることがおかしい」の真偽については、こ
こではどうでもいい話です。

 最後に、「偏り」が真であれば上述の通り兼松氏の主張は通
らなくなるという状況にあるのですから、「意味がありません」
は成立しません。

 コリアの話に拘泥するあまり、論理構造が見えなくなってい
るのかも知れませんが、自らの主張自体と、その主張を構成す
るための論理構造は、分けて考えましょう。実の所、議論にお
いては後者の方が重要ですし、「武力行使の有無」についての
話は手短に切り上げて必要性の話を指摘したのは、そのためで
す。

 議論においては、結果的に主張が正しくても、論理構造がお
かしければ、それは通用しません。正しさが保証されないから
です。逆に、論理構造が正しければ、結論としての主張は自動
的に正しいものになります。論理構造が重要である所以ですね。

>  頼光さんは、「問題にするのがおかしい」とおっしゃいますが、石原
> 都知事の発言は、併合が朝鮮人の自発的な意志で行われたとする
> ものであり、日本が朝鮮の首脳を日本の都合でで入れ替えた上で、
> 反対運動を武力で鎮圧したという事実とは対立するものです。したがっ
> て、石原都知事の主張に対する反論として武力行使の有無が問題
> になるのは当然であり、これを問題にすることがおかしいとする頼光
> さんの主張こそおかしいといえるでしょう。

 ここが、上記の「後述」の部分なのでしょう。そういう前提
で簡単に解説します。詳しく解説して「そこじゃない」なんて
言い出されると、無駄な手戻りですから。

 一言で言うと、こういう事例の真偽を持ち出すことで必要性
のロジックを偽とするのは、事例の内容に関わらず誤りです。
事例に影響されないことがロジックのロジックたる所以なので
すから。

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頼光 mailto:raikou@mug.biglobe.ne.jp
関心・専門分野:
 宗教学、歴史学、社会学、情報工学