In article <4C9F0979.8050808@yahoo.co.jp> tx_sawaki@yahoo.co.jp writes:
>> #厳密に言うと、「駿府」「甲府」は中世に分国支配した大名が居た場所で、
>> #古代の国府ではありません。いずれも古代国府のすぐ近くなんですけどね。
> え、てっきり古代の国府をそのまま継承しているものと思っていました。
えっと、改めて調べ直してみたんですが……
「駿府城の近くに古代国府の跡地がある」という記憶は確かだったんですが、
その「近く」が、笑えるくらい「近く」でした。完全に城内^_^;

というわけで、「古代の国府ではありません」という言及は
駿府については撤回しますが、甲府については間違いありませんでした。
古代の甲斐国府と中近世の甲府は5kmくらい離れています。

ついでに全国的にざっと見てみたのですが、
国府所在地って詳細不明になっているのが多いんですよね。
平安時代に「国衙」として機能していた時代の移転や機能分散も多かったようで、
1ヶ所に決定できない事例も多々あります。
そのうえ、中近世の統治機構所在地を「府中」と呼んだ事例もあったりして、
現存「府中」が実は古代国府ではない事例も少なくないようです。
このスレッドの発端に関連の深い安芸府中は「国衙」になってからの移転先らしい。
(元々は西条=現東広島市/大内氏の安芸経営拠点も、このあたり)

笑ったのが能登国府で、
七尾市内に「府中町」「本府中町」「古府町」が並存しています。
「府中町」が近世の統治機構で「古府町」が古代国府らしく、
その間は2kmほど離れています。

一通り見てみたのですが、近世城郭の中に古代国府の跡地があるのは、
駿河(静岡)の他には、播磨(姫路)しか見つかりませんでした。
「微妙に移動」している事例は多々あるようで、
戦国大名が戦略的観点から動かした事例が多そうです。
近世の中心地と古代国府の位置が共にハッキリしている事例について
双方の距離を整理してみました。
        下野(栃木)5km
        上野(前橋)2km
        安房(館山)2km=平成大合併まで三芳村/現南房総市
        甲斐(甲府)5km=平成大合併まで春日居町/現笛吹市内
        能登(七尾)2km
        越中(高岡)6km=伏木(現高岡市内)
        加賀(小松)4km
        若狭(小浜)3km
        伊賀(上野)3km
        紀伊(和歌山)7km=紀ノ川の対岸
        丹波(亀岡)5km
        丹後(宮津)5km=宮津湾の対岸
        但馬(豊岡)5km=平成大合併まで日高町/現豊岡市内
        因幡(鳥取)4km=平成大合併まで国府町/現鳥取市内
        伯耆(倉吉)2km
        出雲(松江)7km=平成大合併まで市域の南東端ギリギリ
        石見(浜田)3km
        美作(津山)1.5km
        備前(岡山)4km
        阿波(徳島)7km=1967年まで国府町/現徳島市内
        土佐(高知)10km=南国市内
        豊前(行橋)2km=平成大合併まで豊津町/現みやこ町内
        豊後(大分)2km
        筑後(久留米)2km
        肥前(佐賀)8km=平成大合併まで大和町/現佐賀市内
        肥後(熊本)2km
なお、陸奥国府は戦況によって移動しているのですが、
主な所在地は仙台市長町と多賀城市で、仙台城下からの距離は各々3kmと8kmです。

中心が「他の街」へ移転してしまった例は多々あり、
その場合、国府跡付近に「小さい街」が形成される事例が多いようです。
このスレッドの発端になった備後府中は典型例ですし、
讃岐府中は坂出から6km高松から10kmという中途半端な場所(現坂出市内)に
ありますが、やはりこの例に該当する「小さい街」と考えるべきでしょう。他には、
常陸(石岡)尾張(稲沢)淡路(三原=平成大合併で南あわじ市)
周防(防府)日向(妻=現西都市内)大隅(国分)
が該当します。
武蔵府中もこの例ではないかと思われますが、
近世後期以降の人口増加の影響が読み切れません。
なお、上に距離を挙げた事例の中にも、
独立した「小さい街」と考えた方が良いかもしれないものがあります。

遠江(磐田)美濃(垂井)薩摩(川内)についても、基本的には国府跡が
街の起源になっていると考えられますが、少し位置がズレています。
何れも街道の位置変遷と関係しているように思えますが、よく判りません。
三河・備中・筑前については、
豊川稲荷・総社・太宰府天満宮の門前町に中途半端に近過ぎたために、
独立した街としては消えてしまったと考えられます。

畿内五国と近江は国府を含む地域一帯で街の時代変遷が著しく、
どの街が国府につながるのか判定困難です。
また、相模(現平塚市内または現大磯市内)と下総(現市川市内)は、
「国府の街」が全く廃れてから別の場所に人が集まり始めた
と考えるのが妥当と思われる状況です。
伊勢国府跡(現鈴鹿市内)が街にならなかった理由はよく解りません。
志摩国府(平成大合併まで阿児町内)は明らかに船で往来する位置で、
近くに大きな街も無いので、少し特殊状況かもしれません。

なお、離島4国は中心地を動かしたくても地形的に動かせない側面がありますが、
佐渡(真野)と壱岐(石田)は他の港に中心地が移動しています。
隠岐(西郷)と対馬(厳原)は現在でも中心の街ですね。

ちなみに、
伊豆(三島)上総(市原)越後(沼垂=現新潟市内)越前(武生)
信濃(上田)飛騨(高山)伊予(今治)長門(長府=現下関市内)は、
街の何処が国府跡か判らないようです。
平成大合併で高山市に編入された国府町というのがありましたが、
この町名の元になった位置比定は怪しいようです。

また、出羽は戦況による国府移動が陸奥よりさらに頻繁だったこともあり、
国府の所在地域自体が不明確です。

参考文献:新版日本史辞典(角川書店 1997)

                                戸田 孝@滋賀県立琵琶湖博物館
                                 toda@lbm.go.jp