リトル・シスター(3)

○加納マルタによるある組織の説明
 ロビーに着くと、加納マルタはクリーム色のレインコート姿で出迎えて
くれた。彼女は良く見なければレインコートなのか白衣なのかわからない、
病院からそのまま抜出してきたようなにみえる。
 ラウンジの適当な場所をみつけて、コーヒーとブルーベリーソースがこっ
てりとかかったレアチーズケーキを頼んだ。私は朝食はまだ摂っていない、
食欲はないが、脳みそが糖分を無性に欲していた。加納マルタはイチゴが
乗ったショートケーキを頼んだ。

「お時間を割いてわざわざお越しいただきまして、
申し訳ございません。
どうしてもいまのうちに、
ほくなん様にわたくしの立場をご理解いただきたかったのです」
「はぁ」
 私は気の抜けた返事をした。どうも加納マルタが弁解をする理由がわか
らない。中川が気に入らないのなら、面従腹背で適当にやっていれば良い、
なにも私を巻き込む必要はないはずだ。すると、加納マルタは自分は『紫
十字社』という組織の嘱託で派遣されてきた調査員であると、説明した。
 調査員というのは、平たく言えば探偵で、つまり、『紫十字社』という
組織は、特定の人々だけを顧客にする特殊な興信所なのだ。

「女探偵な訳ですか」
「いえ、ほくなん様がお考えになっているような
映画にでてくるようなものではございません。
書類を調べたり、役所の記録を探したりする事務的で
とても地味な仕事なのでございます」
「でも、医者に化けたり、
人の家をみょうちきりんな理由をつけて
家捜ししたりはするのですね」
 加納マルタの尊敬語や謙譲語はおかしい、でも、どこがおかしいがとい
うと、よくわからない。そのくせ、相手を苛立たせるには十分な違和感が
あるのだ。私は、ついいじわるくなってしまう。

「わたくしは正式にカウンセラーの資格を持っております。
べつに職業を偽ってはおりません。
ほくなん様のおたくで家捜しまがいのことに及びましたことは、 
中川氏の指示でございます。
わたくしは関係なかったとは申せませんが、
決して調査員としての職務や、わたくしの意志ではございません。
しかし、まことに、
ほくなん様には失礼なことをいたしました。
謹んでお詫び申し上げます」
「いえ、済んでしまったことですから、それはよいのですが、
私にはあなたが、こんな手間を取って、
私に協力を求めてくるのかが、理解できないのですが」

 加納マルタはなにから説明したらよいかと、考えている様子で、
「そうですねぇ」と言ったまま固まってしまった。私はその間、チーズケー
キを突っついて、コーヒーで流し込んだ。それから、加納マルタは自分が
働いている『紫十字社』という組織について理解してもらわなければなら
ないといって、説明をはじめた。

「たとえば、ある方がご息女のために相応な伴侶を見つけてやりたいと、
考えたとします。その方が十分な資格があって、わたくしども『紫十字社』
の会員でいらした場合、『紫十字社』は、その方のご息女のための伴侶を
データベースから選び出し、その相手様の身上報告書を添えて、ご提案申
し上げます。この辺りは、結婚相談所と興信所が一緒になったようなサー
ビスですので、ほくなん様にもご理解いただけると存じます」
「ただ、その人というのが十分な資産と社会的な地位を持っていなければ、
その紫何とかの会員資格がないという違いがあるわけですね」
「そうです、でも資産や社会的な地位だけではなく、家柄や血筋も大切な
のです。『紫十字社』の会員の方々は、『選ばれた家柄』なのです。
しかし、一方で、興信所としては如何なる結婚相手の身上でも調査いたし
ます。身辺のうわさや評判から、人間関係、家族・親類の行状、血縁関係
は五代前までは調査するのが普通ですし、日本国外の結婚相手の場合には、
相手国の政府調査機関が協力してくださります」
「まるで秘密情報機関ですね」
「そうです、『紫十字社』は民間の政府外郭団体を装っておりますが、
じつは情報機関なのです。『紫十字社』のデータセンターに準備されてい
るデータベースには、総務省統計局、厚生省なとからの統計資料、警察庁
などからの調査報告、人事院からの公務員個人資料、各企業からの職員個
人資料などが、毎日のように登録されてて蓄積・管理されています。この
データベースを利用することによって、市町村の戸籍記録などといったも
のを調べなくとも、『紫十字社』は完璧な個人データを取り出すことがで
きるのです。
そして、『紫十字社』には全国に会員や準会員がたくさんいらっしゃいま
す。準会員というのは『紫十字社』に協力関係にある組織、主に有名女子
大学の後援会とかですが、この方たちは『紫十字社』からの依頼があれば、
調査対象の方の評判や噂を詳細に報告してくださいます。
つまり、『紫十字社』は完璧な国民個人情報をデータベース化して所有し
ているばかりでなく、忠実にして精確な情報を提供するエージェントを全
国に張り巡らしているのです。
情報機関としての違いは破壊工作をしないことぐらいです。
いえ、それもわたくしが知らないだけかもしれません」
「でも、そんなもの一体いつのまに、だれが作ったのですか」
 そんな政府機関まで巻き込んだ、日本全国を蔽う組織を一朝一夕に作れ
るものではない。加納マルタの話を聞いていると、まるで仮面ライダーと
かガッチャマンにでてくる敵役、悪の秘密結社ではないか、このぎこちな
い、ヘンな尊敬語を操る女も改造人間ではないかと、私はまじまじと加納
マルタの表情を覗き込んだ。

「戦前に日本軍は大東亜共栄圏の構想の実現化のために、本朝の主要な血
族とともに、中国の清朝、台湾の明朝、朝鮮の李氏といったアジアに版図
を巡らせるために重要となる人脈を握る血筋を調査いたしました。
また、植民地政策の支援としての人口計画を策定、研究する目的で専門の
研究組織を関東軍に設け、これを二○八優生人口部隊と称しました。
清朝の皇帝だった溥儀を市井から見つ出してきたのもこの部隊です。
この組織の目的は、アジア各国の支配者層の血縁関係を網の目のように張
り巡らせることによって、アジアの政治的な安定と、その頂点に立つ大日
本帝國の地位を磐石なものとするところにありました。このために、南京、
台北、東京に莫大な調査資料を蓄積、解析する施設を造り、張り巡らした
情報網の拠点としました。
しかし、戦況の悪化とともに、これらの壮大な血縁関係計画は縮小され、
スパイの検挙や、身元調査といった調査機能だけが残りました。終戦とも
に組織は、その蓄積した書類をすべて消滅させて解体する必要がありまし
た。敵国米英がこの血縁関係の詳細な資料を入手するということは、日本
という国の屋台骨を危うくさせることに他ならなかったからです。
しかし、一計を案じたある人が、この組織を民間の調査機関といて存続さ
せる方法を考えついたのです。結婚相談所とか女子大学の同窓会といった
組織にGHQが興味を持つわけがありません。すくなくとも、そこにそん
な大それた資料が保管されているとは考えないでしょう。
『紫十字社』は戦前からある、もともとは二○八優生人口部隊の隠れ蓑だっ
た民間の結婚相談所の名前を使って、その全ての資料と調査網を引き継ぎ
ました。もともと国策機関なので、政府機関には太いパイプがあり、有力
政治家の覚えも良かったので、戦後は政財界のありとあらゆる『政略結婚』
を演出することによって、高度成長期の日本を支配してきたのです」
「なるほど、あなたのいう『紫十字社』というものがとんでもない組織で
あることは、良く分かりました。
しかし、それと私があなたに協力することと、
一体どういう関係があるのですか?」

私が喋っている合間に、加納マルタはすばやくショートケーキの上のイチ
ゴをつまむと、自分の口のなかに入れた。それで、ちょっと飲み込むまで
待ってくれというように、手で制すると、冷めたコーヒーを啜って、ごく
りと、飲み込んだ。そのしぐさと加納マルタのバカ丁寧な言動があまりに
もちぐはぐなので、私はやはりこの女は改造人間かロボットではないかと、
疑いを深めた。

「おっしゃることは尤もでございます。
わたくしは『ひつじ牧場』の中川様のご依頼が『紫十字社』に寄せられた
ことによって派遣されてきました。
たしかに、『ひつじ牧場』の経営母胎である小松崎家は『紫十字社』にとっ
て疎かにできない重要な会員で、そのお嬢様の小松崎五月様も将来は『紫
十字社』の運営に関わることになり得る重要な方です。
しかし、『紫十字社』はわたくしがご説明申し上げましたとおり、民間の
機関として存在しておりますが、所詮は『お役所』なのでございます。
お役所は自分の益にならないことは、なるべく回避しようとします。
今回の調査依頼は結婚縁組には全く関係ございません。
ほくなん様がご存知かどうか存じかねますが、小松崎五月様のご破談の件
は、『紫十字社』が各方面への根回しをさせていただきまして、なんとか
収まった次第なのでございます。しばらくはこの件を蒸し返すような事態
は避けたいというのが『紫十字社』の本音なのでございます。
つまり、いま、小松崎五月様がでていらっしゃられてはわたくしどもが、
困るのでございます。
ご理解いただけるでしょうか」
「つまり、ぼくに笠原メイ、つまり小松崎五月の居場所か、
連絡先を知っていても、
『ひつじ牧場』の中川氏には漏らすなと、いうことですね」
「その通りでございます」

 加納マルタは言いたいことを言ったという満足感からか、すこし余裕な
感じで、ワイルドストロベリーウェッジウッドのコーヒー皿を模様を確か
めるように持って、コーヒーを啜った。
 ウェイターが来て水のコップをとり替えていった。となりの席の中年の
夫婦が連れ立って立ち上がって、別の中年の夫婦を迎えた。ロビーに誰か
を探している身なりのいい三つ揃いの男がボーイを呼び止めている。私の
コーヒーカップは空で、底に茶色の輪ができている。

「それじゃ、ぼくはその『紫十字社』に貸しを作ることになるわけですね。
ぼくは『紫十字社』の世話になることもないようだけど、
どうやったら、その貸しを返してもらえるのでしょう?」

私はまだこの人造人間にいじわるしたい気持ちが残っているようだ。なぜ
か、この加納マルタは、そのへんの棒で突っついてみたくなるような変な
感じがするのだ。

「ほくなん様には、
お礼としてわたくしは中川氏の情報をリークいたします。
中川氏が今回のような行動に出る際には、わたくしが予め
ほくなん様にご連絡をさしあげます。
危害がなるべく及ばないようにも努力させてもいただきます。
ですから、ご連絡先をわたくしに常にお知らせくださるように
おねがいいたします」
「なるほど、それでギブ・アンド・テイクだね」

 私は自分の携帯電話の番号を加納マルタに教えた。
 加納マルタは「わたくしにお合いになったことはくれぐれもご内密に」
と言ってロビーの雑踏の中に消えた。あとでコーヒーとケーキ代を払って
ないことが分かり、私が二人分の支払いをさせられた。ホテルのコーヒー
は高すぎる。

※これはフィクションで、実在の人物・団体とは
 全然関係ありません。

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のりたま@睾丸無知になっております