国家主義←anko,谷村,安倍,麻生 
予算の軍事優先配分←anko,谷村,安倍,麻生  
国家安全保障への異常なまでの執着 ←anko,谷村,安倍,麻生 
宗教と政府が癒着 ←anko,谷村,安倍,麻生 と靖国神社
企業優先、民衆軽視 ←anko,谷村,安倍,麻生 
労働組合活動の抑制 ←anko,谷村,安倍,麻生 
警察強化←共謀罪、保安処分、検閲等←anko,谷村,安倍,麻生 
縁故主義と堕落 ←自民党、民主党の政治家のオンパレード←anko,谷村,安倍
,麻生 

anko,谷村,安倍,麻生 がファシストであることは論を待たない。

1.遠くない過去に国策を誤り戦争の道を歩んだという政府認識を無視し、満
州事変さえ含めない。
2.戦争責任は国民全体にあるなどとぼかす。「責任」の意味定義を、強盗殺
人で殺された人間も悪いという犯罪責任から、意味をずらすファシスト一流の
あいまい主義でごまかす。ankoやyamもおなじ。


二十一カ条要求 <===これのどこが、侵略でないのか
『
第1次世界大戦中に日本が中国に強要した権益拡大の要求。対華二十一カ条要
求ともいうが、5号21カ条にわたって経済・政治上の日本の特権をもとめ
た。中国民衆のはげしい怒りを買った。

1914年に第1次世界大戦がはじまるり英・独・仏などヨーロッパ列強は中国に
つ権益に集中することがむずかしくなり、これを利用するように、第2次大隈
重信内閣は、軍部・財界の対中国要求を21カ条にとりまとめて、15年(大正4)
袁世凱大総統に提出した。日本の要求は、ドイツがもっていた山東省の権益の
継承、製鉄所の日中合弁化、中国沿岸港湾の外国への不割譲など多岐にわたる
が、中心は、旅順・大連と満鉄の租借権を99カ年に延長する諸要求であった
(第2号7カ条)。日露戦争で日本がえた特権を拡大して、満蒙すなわち満州(中
国東北部)・内蒙古を日本の独占的支配のもとにおこうとする考えだった。
日清戦争後、中国をあなどる風潮が強くなっていた日本の民衆の多くも政府の
要求を支持した。<===anko,谷村と同じ国家社会主義

中国は、辛亥革命(1911)で成立した中華民国の実権を、1913年に大総統になっ
た袁世凱がにぎってまもない時期だったが、袁は日本の要求を国際社会にうっ
たえてしりぞけようとした。西欧諸国は世界大戦にむかっていて効果がなかっ
た。中国民衆は日貨排斥などの抗議行動をおこなったが、武力を背景にした日
本の最後通牒のまえに、15年5月9日、要求の多くをうけいれた。その後、中国
民衆は5月9日を国恥記念日とし、これ以後の抗日民族運動にひきつがれていく
ことになった。21カ条の要求は、第1次世界大戦終了後のワシントン会議(1921
〜22)で、満蒙での権益以外の部分は無効とされた。<==anko,谷村は知らな
い。
』

満州事変 <==これのどこが侵略でないのか

『
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件からはじまった日本の満州(中国東北部)へ
の侵略戦争だが、32年3月1日に日本の傀儡政権「満州国」を成立させ、国際的
非難をよそに、かねてから満蒙領有を企図していた関東軍の野望は次々に実現
していった。

日露戦争後、日本はロシアからえた関東州と満鉄などの権益を中心に、中国東
北地方の東3省(奉天、吉林、黒竜江)および満州に強い勢力を保持していた
が、日本商品排斥運動と大恐慌の影響で満鉄の経営が悪化し、さらに中国国民
党政府が鉄道を建設したことで、満鉄線の貨物輸送率が激減した。軍部と右
翼、野党政友会の一部はこれを「満蒙の危機」として喧伝し、<==谷村と同
じ
国民に対してはマスコミを通じて排外主義をあおり、政府の強い対応をせまった。
<==anko,谷村と同じ国家社会主義

関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と同作戦主任参謀の石原莞爾中佐らは、こう
した国内情勢に力をえて、かねてから豊富な石炭・鉄などの資源の確保、対ソ
戦の前線基地としての必要性、朝鮮統治の安定、昭和恐慌下のインフレや失業
問題の解決などのために満蒙の重要性を説き、満蒙領有計画を立案した。機会
をねらっていた板垣、石原らは1931年9月18日夜、独立守備歩兵隊の河本末守
中尉に奉天(瀋陽)郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破させ(柳条湖事件)、これを
国民党政権に合流した軍閥張学良軍の犯行とみせかけ、その軍宿舎であった
北大営を急襲した。<==侵略といわずになんと言う。

 
9月18日の柳条湖事件を口実に日本軍は中国軍に攻撃を開始、翌年2月までに中
国東北部の大半を占領。3月には「満州国」を成立させた。柳条湖事件の翌19
日、関東軍は奉天をはじめとする満鉄沿線を制圧した。同日、若槻礼次郎内閣は
事態不拡大の方針をうちだしたが、21日、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将が南満
州に独断で部隊を越境させるなど、軍部は東3省全域に次々に戦線を拡大、10
月には張学良が仮政府をおいていた錦州を空爆、11月にはチチハル、翌1932年
1月に錦州を、さらにハルピンを占領した。<==これが侵略で無いならこの
世に侵略は無い。

1931年(昭和6)柳条湖事件直後の9月21日、中国は満州事変を国際連盟に提訴し
たが、これに応じて日本は調査団派遣を提案、12月10日の理事会で決議され、
調査委員会が組織されることになった。この『リットン報告書(国際連盟調査
委員会報告書)』は緒言と10章からなる。

こうした日本の満州への侵略に対してアメリカは不承認を声明し、また1933年
2月、国際連盟総会は日本の正当性を否認し、列強による東3省の共同管理を提
案するリットン報告書を圧倒的多数で可決した。しかし、その間も関東軍
は上海事変によって外国の目をそらしながら、満州の傀儡政権樹立をはかる
「満蒙共和国統治大綱案」の実現をすすめ、32年3月1日、清朝廃帝の愛新覚羅
溥儀を執政とする「満州国」を樹立させた。<==これもどこが侵略でないの
か

1933年5月31日、日本は塘沽(タンクー)停戦協定をむすび、国民党政府に日本
の満州植民地支配をみとめさせた。これによって、満州の権益確保をめざした
満州事変はいったん終息するが、軍部は傀儡政権「満州国」の治安維持のため
には華北5省を領有する必要があると考えて、「華北分離工作」にもとづく新
たな侵略をはかり、やがて日中全面戦争に突入していった。<==侵略でな
ければなんという。


盧溝橋事件 <==これが侵略でなければなんだ
『 
1937年(昭和12)7月7日から11日に北平(北京)南西郊外の盧溝橋(俗に蘆溝橋)一
帯でおきた日中両軍の軍事衝突だが、この衝突事件は日中戦争の発端となり、
中国では七・七事変ともいい、日本では当時、北支事変とよんだ。

7日午後10時半ごろに、盧溝橋近くで演習中の日本軍支那駐屯歩兵隊の中隊長
が、中国軍のものとみられる竜王廟方面からの小銃の実弾射撃音をきき、兵1
名が行方不明になる事態が発生した。兵はのちに帰隊したが、8日午前4時23
分、日本軍に攻撃命令がだされて日中両軍の戦闘がはじまった。<==侵略

11日夜8時、両軍に停戦協定が成立して事件はおわるかにみえたが、盧溝橋事
件を中国の計画的武力攻撃だとした近衛文麿内閣は、この日すでに「華北派兵
声明」を発表し、3個師団の動員を決定していた。<==侵略
いっぽう、中国国民政府側も日本の華北侵略に対して徹底抗戦をきめてい
たため、7月28日、日本軍が華北へ総攻撃を開始、日中全面戦争に突入した。

<==侵略