テレビをつけたら日本映画専門チャンネルで丁度はじまったところ
でみる(確か創作ノートに書き込みがあるので、たぶん機会があっ
たら観たいと思っていたのだろうと思ってみた)

フェリーニの映画のようにだらだらと観てしまい、ゴダールの映画
のように訳のわからない終わり方をする映画という印象(つまり、
最後までちゃんと視聴した)でした。

さとうきび作業場で働くギルーは作業場の盲目の老人西原親方の囲
いもの妖艶なマレーに惹かれ交わる、しかしそのあとでマレーを叱
る西原親方とウトゥー婆の会話を立ち聞きしてマレーの正体が豚の
化身であることを知る、秘密を知られた西原親方はギルーを亡き者
にせんと槍で追いかけることになる

居場所を失ったギルーは動物占いに熱心な妹チルーの勧めで人が立
ち入ることの無いウンタマの森に隠れることにする、しかし、そこ
でガジュマル木の精キジムナーにマレーと交わった人間はウンタマ
の森の神の怒りに触れ殺されてしまうと告げられる、マレーはウン
タマの森の神が将来慰みものにするために西原親方とウトゥー婆に
預けて聖なる豚の化身なのだった。しかし、術を覚えて人間でなく
なれば神は森の眷属と見なして殺されることはなくなるだろうから
と額に光の石を埋め込み超自然的能力を手に入れるのだった。

なんだか、ハリマオが始まるような筋書きだけど、ドンパチの活劇
が展開されるわけでもなく、緊迫感の欠けるのんびりした描写で淡々
と話がすすむ、現実の話とそれが語られる話、そして劇中劇として
村芝居で演じられる話が畳み込まれていき、最後に沖縄の日本復帰
を告げる全然時間軸が異なるさとうきび作業場の親方が海辺を背に
寝そべるマレーとダイナマイトで爆死する場面で終わる。

さて観終わってから、創作ノートを取り出してその観たいと書き付
けてあった理由を思い出そうとした、ところがノートを見ると欄外
に走り書きのように「映画『ウンタマギルー』1989高嶺剛監督、
全編沖縄語で日本語字幕」とあるだけで脈絡がつかめない、なんだっ
たのだろう

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のりたま@何度も観たい映画ではないが
     あとひく映画