小森 時男 wrote:

小森さんは、「日本の心や文化はかなり程度の高い物」だとか、「相撲の「心」
と言うことなんか分かって居るものはすくない」などとおっしゃるが、では、そ
の「日本の心」とか、「相撲の心」とかいうものは、一体どういうものなのか?
それほど自明のことではないだろう。
江戸時代、国学者たちは「日本の心」つまり「やまとごころ」とは何かを追究
し、その原点を日本古典、つまり「古事記」、「万葉集」、「源氏物語」などに
求め、怒りたければ怒り、泣きたければ泣き、喜びたければ喜び、何事にもとら
われない大らかな心のことであるとした。
もちろん、これは儒教的立場への批判である。儒学者たちは、嬉しくても表情に
出してはならない、泣きたくても泣いてはならない、怒りたくても怒ってはなら
ない、それが礼であるとした。要するに、何があっても感情を表面に出すことな
く、常に能面のような表情でいられるのが、出来た人ということになる。
国学者たちに言わせれば、儒学者たちの教えは「さかしらなからごころ(唐
心)」ということになり、本来の日本の心とはまったく異なるものだということ
になる。
荷田春満は「ふみわけよ大和にあらぬ唐鳥の跡をみるのみ人の道かは」と詠んで
いる。
本居宣長は「やまとごころ」を「朝日に匂う山桜花」に例えている。
小森さんの「日本の心」論は、そもそも外国人には理解不能なものとするように
見え、少なからず偏狭のように思える。本来「やまとごころ」とはそのような偏
狭な立場からは解放されたものであるだろう。
このような国学的大和魂論が、幕末維新の志士たちに精神的影響を与え、彼らの
幕藩体制的秩序に対する破壊的行動のバックボーンともなった。