現職の外務大臣及び与党の幹部が、日本の核武装に関して検討する論議をしても良いと話した事に関して批判がある。
 趣旨としては、日本は唯一の被爆国、核拡散条約に抵触する云々とあるが、論議そのものを非難する事には疑問を感じる。
 
 核武装する事の代価が如何に高くつく事は誰もが承知しているだろう。然し被爆国が核武装する事に反対する側には組しない。
 核拡散条約に抵触する故核武装を控えるのであれば納得出来る。その拡散条約も事実上形骸化している。
 有る意味、条約は破られる為にあるとも言える。その様に考えると検討そのものを禁止すると非難する事は為にする非難と言える。
 能力を持って行わない事と出来ない事とは基本的に異なる。
 
 世の中には、明らかに高い買い物でも、代替手段が無ければ已む無く手にしなければならない物は幾らでも存在する。
 既存のテレビの放送が中止されれば、好むと好まざるとに関らず高い受像機を買うか、テレビを見ないかの選択を迫られるのと同じと考えても良いだろう。
 周囲の環境が変われば、それなりに自分がどの様に行動するか検討しておく事は決して悪い事では無い。
 デジタル電波の届かない場所には光ケ-ブルでの配信も検討されている様子だし、地上波に拘る事無く衛星波のみにする方法もある。
 各々の特質を考慮した上で選択すれば良い。しかし地上波と全く同じは期待出来ない。 


 核武装に反対する人々は、本当に核兵器の脅威を知っているのだろうか。
 人の命は刀で首を刎ねても、通常兵器で無差別爆撃されても、食料援助を中断されて餓死しても、亡くなった人、命が亡くなるかも知れないとの脅威に曝されている事には変わりなく、その人に取っては手段は関係なく脅威である。

 敢えて言えば、地雷で足を失ったり、ナパ−ム弾で大きな火傷を負い機能障害を残したり、化学兵器で形質異常を起こし、発癌の脅威に何年も曝されるよりは、ましかも知れない。

 世界有数の原発国であり、事実上核武装している国が、改めて核武装の論議を非難する意味が理解出来ない。
 自前の核兵器は現在の民間技術で幾つでも出来るし、ピンポイントのミサイル撃ち込みも可能な時代で、且つ世界の国の多くが日本は何時でも核武装出来ると思い、核兵器が日本国内に存在すると思っているのに、敢えて核武装宣言の必要も感じないが、論議する事は無意味ではない。

 若し核実験をするのであれば、尖閣列島の一つにボ−リングをして地下実験をすれば、それも中国のガス田からガスが出なくなる位の威力を持った物が良いだろう。 正に核抑止力が発揮出来る。