アメリカでは司法取引が盛んに行なわれている。刑法犯の取調べや裁判の効率化のためだという。
 日本でも、そのような「司法取引」取り入れるべき、という論議が出てきているようだ。
 実際に、談合事案などでは司法取引的なものを認める法律があるが、談合疑惑は落札率などで、状況証拠はつかめるが、巧妙に行なわれる談合事務という物的証拠は、密告でもない限りつかみにくいので、やむを得ない面もある。
 しかし、一般の犯罪にこれを適用するのは賛成しかねる。その理由は三つある。
 第一は、日本の警察は、「自白偏重」の伝統があるから、刑事の誘導で、無実なのに安易に司法取引に応じる可能性が高くなる虞があること
 第二に、司法取引という形ではないが、犯人の反省度や改悛度の高さを示す態度であるとして判事が罪刑を軽減することは行なわれていること
 実際にオウム真理教がやった地下鉄サリン事件で、死刑とすべきところを、情報提供や改悛の情を評価されて、罪一等を減じられた被告もいるのである。
 第三に、上記の第二の場合を除いて、ただ罪刑を軽くしてもらうために、司法取引に応じるということになりかねないし、これは贖罪の意味を曖昧にすることに他ならないからである。
 効率、コストダウン、迅速化だけで裁判のあるべき姿を歪めてはならないと思う。
 村上新八