国会やマスコミにおいて「愛国心」「国旗」「国歌」の発言で足りないものは無いですか。



 「祖国を愛する」。とても感性的な美しい言葉ですね。

 ところで、「好き嫌い」とか「暑い寒い」とか「快不快」とか「美醜」とか「愛憎」などの感性は人に強要されるものでなく、人間の本質的な属性であり、肉体の生理的な発露ではないでしょうか。

 「忠誠」と「愛国」とはどのような関係にあるのでしょう。

 誰に「忠誠」を捧げるのでしょうか。「役人に」ですか。「政府に」ですか。「天皇に」ですか。「天皇」は責任を持っていませんよね。「内閣」は入れ替わって政策の一貫性は保証されませんよね。「政府」は大多数の国民の「死」ではなく、「生きること」を最後まで保障してくれますか。

 誰のための「命」ですか。誰のための「人生」ですか。

 主権在民の民主主義下では「忠誠」は存在意義がないのではないでしょうか。

 主権在民の民主主義下では「大多数の国民の最大幸福」こそが社会の中で生きていくための根本的な規範ではないでしょうか。



 一般名詞としての「国旗」や「国歌」は、その存在意義を洋の東西を問わず認知されているものと思われます。

 ところで、わが国の国歌は「君が代」すなわち「天皇の世」を讃美した歌となっております。これこそがわが国の国歌に対する抵抗感の淵源ではありませんか。太平洋戦争において、「天皇」の名のもとで多大なる犠牲を強いられた少なからぬ国民が、素直に誇り高く、「天皇の世」のもとで生きていくことに抵抗感を持つことは理解できないことではないでしょう。

 教育の場における「国歌」斉唱の是非に関する議論において、なぜこの第一義的反対理由を前面に出して議論しないのでしょうか。