小泉の構造改革によって、規制緩和、なんでもバカの一つ覚えの民営化などの失政から、いろいろな弊害が発生している。
 マンション、ホテルの耐震強度偽装、70万とも80万とも言われるNEETの発生、企業における正社員の減とパ−ト、派遣の増で、その比率は雇用人口の40%に達し、その所得は仕事は全く同じ正社員よりも30%も低いというような所得格差の拡大などがあげられる。  また、この5年間で貯蓄を持たぬ所帯が2倍、生活保護所帯は1.7倍に増え、義務教育での学費支援児童は40%に達しているという統計もある。
 かって、「一億総中流社会」といわれた社会が高所得と低所得に二極化しつつあるのだ。
 小泉は「所得格差が出るのは当然だ」と嘯いている。が、それは、評論家の発言としては許されるかも知れないが、政治家としては、正しい判断ではないと考える。
 人間の社会のみならず。動物の世界にも固体間の格差はあるから、格差そのものは当然ではある。しかし、問題は、格差の程度と、社会の活性化との関係、全体としての人的能力の活用という観点からみて、それでよいのか、と言う問題に帰着するのであろう。
 低所得層でも、家族を養え、子どもに世間並みの教育を受けさせ、老後のための蓄えができる程度の所得があれば問題は少ないが、それ以下であれば、所得格差が教育格差を生むことになり、教育の機会均等を損なうという問題を生じる。これが「程度の問題」の一つである。 固定化されて、階級間の流動のない、身分的階級社会では、そうでない社会に比べて発展が遅れる。下層階級のやる気を阻害するからである。 大きな所得格差は、所得階層という階級社会を生むだけでなく、それを固定化する傾向が出てくる。それは身分的階層社会と同じく、社会の発展にブレ−キを掛ける作用をすることになるし、人的能力の活用を阻害することを意味するものである。 格差社会が問題とされるのは、このような意味からであると思う。  格差を助長するような規制撤廃、税制、徹底した自由競争によってこのような所得格差の拡大を野放しにする政策の転換を図らねばならないと考える。 村上新八