信仰とは、神佛を信じ、敬い、その訓えに従うことである。この「信じる」ということは、神仏の存在の可否とは関係ないのである。神や仏の存在は、ことの性質上否定も肯定もでないもので、「信じる」ということは、神仏が居ようと居まいとそんなことは、関係なく、頭から信じることなのだ。それは、「鰯のあまた」や「おれは浮気はしていない」という夫の言葉を頭から信じることと同じである。そういうことができる人が信者になるのである。
 異教徒弾圧の歴史は古い、遡れば、ギリシャ時代以前からあった。しかし、考えてみれば、異教徒とは、その土地で一般に普及している宗教とは異なる宗教の信者ということで、異教徒を嫌うのは、余所者を嫌うのと同じなのだ。
 しかし、その土地の人がよその土地に移れば、自分が異教徒になるのである。そこでは彼我逆転して今度は自分が弾圧されることになるのだ。
 これは理不尽な話である。信教の自由は、こんなところに由来する思想であろうと思う。
 しかし、余所者意識がなくならないと同じで異教徒差別意識もこれをなくすのは難しいのである。
 村上新八