宗教間抗争や宗派間抗争が多い世界だから、このようなことがなくなれば、「信教の自由」が世界平和に繋がるであろうが、そうはゆかないのである。これが「信教の自由の現実的限界」という意味である。
 村上新八

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信教の自由を誤解しては為らない。

信教とは・・・・
信じる事を教えられ・教えられる事を信じる。

明確に個人の基本的な人権である。
即ち、宗教を信じることの「信教の自由」ではない。

宗教以前の人権の守護の問題である。
言い換えれは「キリスト教」を信ずる以前に・・・・

キリスト教が信じるに値するか否か。その判断の信教の自由である。

信教とは・・・・
信じる事を教えられ・教えられる事を信じる。其の相関関係を信教の自由である。

言い換えれば「キリスト教」を信ずれば他宗教は信じない。・・・・?
一見して正義と誤解する。即ち、他宗教を信じない事は・他宗教を無言でも弾圧することに為る。

他の宗教を信じる者等も同様の辞気にはまるのである。
言い換えれば双方の宗教関係者はお互いの自由を失う。

宗教を中心的に思考すれば「信教の自由」は存在しなくなる。それは信教の自由の限界ではない。
自らが以って、自らの信教の自由を否定する。其処には信教の自由は存在しない。

従って、信教の自由を確保する為には「お互いが」理解しあう精神が必要である。
神道国学の甲骨亀甲因書は、聖徳太子の「和を以って尊しと為す。」其の辞気が信教の自由である。

徳川二代将軍の「上卿法度」は、日本古来の信教の自由を幕府強権で封じたのである。 


今こそ日本古来の聖徳太子の「和」を守護しなければ為らない。
日本国の神道国学の神社信仰は世界に例を見ない全ての宗派を包み込む信仰母体を有する。

キリスト教も・アラーの神も包み込む信仰母体を信教の自由な神社信仰を大切にしなくては為らない。

アラブとイスラエル。これ等の国々が「信教の自由」を熟知すれば中東の聖戦は治まるのである。
そして「和を以って尊しと為す」其の信教の自由と言う「理念哲学と其の輪廻」を世界に広める。

             神道国学者