以下の投稿文は一般的な思いを連ねている。
            しかし、その状態を現代的には真実を伝える貴重な投稿文である。

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            「男狭穂塚や女狭穂塚を詳しく調べれば」の
            投稿文を参照しながら読むと面白い。

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            九州に存在する この二つの大きな古墳は、残念ながら
            皇室の「財産」とされているため、これまで 
            学術的調査が必要だといっても、宮内庁が 認めてこなかったそうだ。
            一般には 立ち入りさえ拒み続けてきた。
            歴史の闇を照らすうえで、貴重な史料となるはずにもかかわらずだ。
            最近、宮崎県教委によるレーダー調査が認められたが、
            古墳本体の発掘調査は、今後も認めない姿勢を 頑なに示している。

            男狭穂塚と女狭穂塚を含む西都原古墳群は、宮崎県のほぼ中央に位置する。 

            西都市街の西、サイトバルと呼ばれている標高60mの洪積層台地に分布しており、
            3世紀半ばから7世紀前半に築造されたと推定されている。
            卑弥呼の時代からは、やや 下った年代の墓と思えるが、どうだろう。
            考えられる 可能性としては、
            中国の皇帝から「親魏倭王」の金印を授かった女王卑弥呼の 
            数代後の権力者、つまり 伝承される「邇邇芸命とその妻の墓」とする説は
            それなりに、的を射ていることになる。

            ところで、古代中国の史書には、
            「鏡」が 卑弥呼および倭人の「好物」であると記されている。
            卑弥呼をはじめとして 倭の王達は、
            中国皇帝の臣の証である金印とともに、
            大陸製の銅鏡を ことのほか喜んで授かったらしい。
            「魏志倭人伝」によれば、魏の皇帝は、卑弥呼に「銅鏡百牧」を下賜した。 

            邪馬台国が畿内にあったと想定する人々は、
            畿内から大量に出土する三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと主張しているが、 

            邪馬台国九州説をとる人々は、三角縁神獣鏡は国産鏡であり、
            魏の皇帝から賜った鏡は、北九州から多く出土する漢鏡だと主張する。

            男狭穂塚や女狭穂塚を詳しく調べれば、
            いずれかの鏡が 出土するかもしれない。
            なぜ、古代の倭人が 鏡をことのほか尊重したのか、
            なぜ、権力の象徴としたのか、
            憶測の域を でないが、
            卑弥呼が呪術的な儀式に利用した可能性などを考えれば、
            太陽信仰に鏡が結びついていたこと、その太陽への信仰が、
            いつしか 日の巫女・ヒミコの神格化につながり、
            やがて 日の皇女(ミコ)、アマテラス神話へと繋がっていったこと、
            さらに言えば、鏡そのものが、朝廷継承者の印、「神器」として
            代々 その王族に受け継がれるに至ったと考えるのが自然だと思う。

            八咫鏡が、本当に古代から伝わっているモノホンだとすれば、
            それを科学的に解析すると、どのような結果が得られるか、
            卑弥呼が下賜された鏡の正体を 推定する手がかりになるかもしれない。