嘗て、「党議拘束」は契約の一種なのだから、契約というものが社会で広く認め
られている以上、それを否定するような考えはおかしい、とする趣旨の意見が投
げられたことがある。ところで、今回わたくしは、「党議拘束」は何故社会から
肯定的価値ありとの評価を受けるのであろうか、という視点で考えてみようと思
う。このことは議論次第では同時に社会から見て否定的価値しかないとの結論に
至る可能性も無きにしも非ず。

(1)「党議拘束」の存在価値を認める立場は政党の存在価値を認める立場と軌
を一にしている。政党の存在が政治社会において国民に利益をもたらすと考える
以上政党の存在を維持してゆく「党議拘束」を社会的に否定するというのは矛盾
だからであります。ただし、政党の存在と関らない「党議拘束」は無用のものと
して否定することもできるし、それ以前に国民代表の原則=自由委任の原則を否
定する政党の存在はその限りで否定される以上、「党議拘束」もその限りで否定
される、という結論も同時にこの立場からは導き出される。つまり、

       政党の存在価値=党議拘束の存在価値

(2)もっと根本的に、社会が「党議拘束」の価値を認めようが認めまいが、そ
れ以前に、社会に迷惑を掛けない限りは、政党と党員との間で自由に決められて
然るべしとする考えも不可能ではない。これが「党議拘束」についての契約同視
説。この考えは古典的な私的自治の原則から導き出されるもので、その原則の契
約面での表現が契約自由の原則。「党議拘束」は一種の契約だとする立場はこの
原則をバックボーンにしている。この考えは自然法学の影響の下、国家こそが後
発的な存在であってしたがって国家社会生活とは必ずしもリンクするものではな
いとの前提に立つ(二元主義)。自由な商品交換を前提とする経済的自由主義が
支配した初期資本主義によって支えられた。さてさて、このような考えは現在で
も妥当するのかどうか。

(2´)古典的な発想を離れ、国家社会を示す価値表現は全て憲法の中にあると
する考えで、従来の私的自治その契約面での表現である契約自由の原則さえ憲法
が承認するから認められるとする(一元主義)。この考えによれば、契約自由の
原則といえども他の憲法的価値(=社会的価値)によって制約をまぬかれない。
この立場からは「党議拘束」をいかに契約と考えようと、種々の憲法的価値の影
響を受けるという結論になる。例えば議会を構成する議員の「事由委任の原則」
を踏みにじる様な「党議拘束」は(1)同様認められない。

以上見てきたところからもお分かりのとおり、結局は、政党という政治団体は何
故に存在価値を付与されるのかということの粒さな検討が重要なのであって、功
罪をも含めもっともっと研究されて然るべき分野ではないのか。ところが日本の
社会ではその上澄みを語りヨーロッパでの政党の存在を肯定的にただ受け止めて
いるというのが現状である。この苦情は前回も述べたのでこれ以上は繰り返すまい。

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太宰 真@URAWA