科学技術発展と道徳後退の落差は何故
科学技術発展のスピ−ドは目覚しいものがある。ITはコミニケ−ションのツ−ルとして革命的な変革をもたらし、分子生物学の分やでは、クロ−ン技術などにより、まさに神の領域にまで入り込んでいる。が、これだけではなく、すべての科学技術分野で日進月歩どころか時進日歩のスピ−ドで進展し、その加速度はますます高まってきている。
これに比べて、倫理や道徳の実践分野では全く進歩も進化もない。紀元前5世紀の釈迦牟尼や2000年前のイエスの訓えが、同時代のギリシャ哲学のように、古代の道徳の歴史として扱われるのではなく、今日でも道徳の規範として活き続けていること自体が不思議のような気もする。それらの古代の規範が今日でも活きているというのは、規範が実践されていない、されにくいからなのである。それら道徳の実践という面では人間は進歩どころか大きく後退していることを認めねばなるまい。
このこと自体「人間は生得的に善悪を区別する能力を備えている。これが行動を正しく導き、道徳律を実践する『実践理性』である」と述べたカントの説は誤りであることを示すものである。
このような科学技術と道徳との大きな落差の原因はどこにあるのだろう。
哲学者梅原猛氏は、道徳低下の原因を宗教心の希薄化にあるとしている。確かに、宗教は最高の道徳であると思う。信仰とは神仏を信じ、神仏を懼れ、それが一種の強制力となって、その訓えである道徳を実践することが減ってきていることを梅原氏は指摘したいのであろう。それも一面の真理ではあろう。が、不信人者が非道徳者だとは言えないし、その逆もあるのであるから、これが真の原因とも思われない。
そりの真因は三つあると思う。その一つは
「価値観」の違いである。
道徳律はカントの言うように、条件なしで適用される「定言的命法」だが、道徳は法律ではないから、それを実践するかしないかや実践の程度は任意であり、それで世間から決定的な指弾を受けることもない。それに対して科学技術の体得の如何は立身や生活を左右するものである。この違いが「価値観」の差を生み、道徳が軽視されることにつながるのであろう。
第二は、「競争原理」の作用の違いである。
科学技術は、激しい開発競争にさらされている。一刻でも早く競争に勝った者がより大きな利益を独占できる。その様な凄まじい技術開発競争があるから、その相促作用でどんどん進展する。これに対して道徳の実践には科学技術のように競争原理も働かず、努力に対する報いもない。道徳実践の報いは基本的には自己満足だけである。この違いがある。
第三は「変化」と「反復」との違いである。
科学技術は、変化は発展してゆく。先人の業績は後輩に引き継がれ、さらに改良、改革が加えれていく。このような積み重ねと変化の持続である。これが科学技術発展の形である。これに対して道徳は、人間関係をうまくやるためのル−ルであるから古代から決まったことの反復である。
一年の繰り返しを10年やっても、熟練するだけで何の変化も発展もない。これと同じで、人間の寿命が80年とすれば、80年の繰り返しを2000年やっても発展はないのだ。
科学技術と道徳とのこの三つの相違に加えて、近年の道徳退廃を促す社会環境の悪化が今日の道徳低下を招いたものである。
村上新八
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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