ソクラテスは古今の哲学者のうちで最も偉大な愛国者であったと思う。
 ソクラテスにとって祖国アテナイは、親であり、その命ずるところに従い、どんな仕打ちをされても叛逆することは許されない関係にあると思っていたのだ。そうでなければ、正義をかざして祖国を説得することはできないという信念の持ち主であったのである。
 一兵士として戦場に赴き、デリオンの戦いで敗れて敗走するアテナイ軍の殿をつとめて敵の猛追を防ぎ、自軍の祖国への帰還を助けたのもソクラテスであった。
 ソクラテスのこのような強烈な祖国愛は、彼が国家の認める神を認めず、別の新奇の教えを説き、青年に害悪を及ぼしたとして有罪と判決され、死刑を宣せられても、これに従容として従わせたのである。脱獄の機会もあったし、当時のエ−ゲ海諸国へ亡命することも出来たのに、祖国の法に背くものとしてこれを肯んじなかったのである。彼こそ真の愛国者だったと言えよう。
 しかし、ソクラテスのような純粋にして荘厳な祖国愛を抱くものは稀である。
 一般には、愛国心の源は三つある。「身びいき心」と「郷土愛」「競争心」である。 

 国家の持つ文化的な誇りも、これがあれば源の一つになるが、それかない国もあるから除外する。
 「身びいき心」は自己愛を核として同心円的に、家族愛、仲間愛、同郷愛へと外延化してゆく。その終局の広がりが国家、同胞であり、愛の強さもその広がりに比例して低減していくものと考えられる。
 「郷土愛」は「国敗れて山河あり」という言葉に示されるようになふるさとや同郷人への愛である。そこで自分が生まれ、育くまれた郷土の自然、山や海に対する郷愁的な愛の感情である。その延長が国ということになるのである。
 しかし、この郷土愛は、海浜や川岸やらの自然がコンクリ−トで固められ、町はコンビニ、ス−パ−、マンションの氾濫で均一化されるにつれて急速に失われていまくのである。
 三つ目は「競争心」である。これは人間の本性だから、普段でも潜在しているが、他国と競い合うような場では猛然と頭をもたげてくる。オリンピックや国際競技の場ではサポ−タ−ならずとも、自国の応援に熱狂することになるのである。しかし、それは競技が終了すれば、忽ち休眠してしまう一時的な熱狂である。
 このような愛国心は何なのか。敵が攻めてくれば、自己の生命、財産を守るために武器を取って敢然と戦うが、それは愛国心以前の問題である。被支配者に堕されたくないためであり、祖国のためというより敵愾心とか恐怖心がなせる技なのだ。
 愛国心が高まれば、その国の伝統、文化を大切にすることになるが、それは趣味や好みの問題が絡むから、一概に期待はできない。
 戦前の近衛内閣で実施した「国民精神総動員運動」で挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を目標に国民を戦争に追い込んだ時期には軍国主義に反対する者は「非国民」と罵られた。愛国心のない奴という意味である。が、当時非国民呼ばわりされた人たちこそ、亡国の道を進む軍国化された日本の末路を憂うる真の愛国者であったのだ。
 このように官製の愛国心政策は、国家統合を強化し、国民を国家統制に服せしめるツ−ルであり、その時々の権力者の政治的な手段としての機能をもつものである。
 村上新八