ショ−ペンハウエルは、老後の悩みは病苦や収入が途絶えることによる貧困を除けは、その最も大きなものは「退屈」だ、と言う。老後に限らず、趣味を持たず働くことしか知らない人にとっては、休日でさえ退屈を持て余すのである。
 暇を持て余して、その暇を潰すために「何かすることはないか」と思いめぐらせてもやることを思いつかない状態が「退屈」である。
 若いときからずっと仕事ー筋で、他に道楽も趣味もなくやってきた人間は少なくない。その仕事が自営で、自分で営んでいる人は仕事を続けられるからよいが、問題はサラリ−マンである。
 「老いをどう過ごすか」を書いたノウハウ本は山ほどある。みんなどうすべきか悩んでいるからである。しかし、「老いを乗り超えるノウハウ本を山ほど読んだが訳には立たなかった」と言う人がほとんどである。
 「趣味を持て」「ボランイティアをやれ」と言われても、即やれるものではないし、そんなことをやれるくらいの人はそんな本は読まないのである。人のキャリヤ−も生きかたもさまざま。自分の老後の経験を本にしても、他人の参考にはならないのは当たり前である。
 ソクラテスは言っている。「若者は学ばねばならぬ。成人は善行に勤しめ、老人は文武すべての職より身をひき、悠々自適、何の務めにも拘束されずに在らねばならない」と。と言ってもソクラテスはアテナイの広場に出かけて、若者をつかまえては、議論をふっかけていたのだ。それがソクラテスの老後の退屈しのぎであった。
 ショ−ペンハウエルは「そんな退屈しのぎの救いを外に求めてもだめだ。大した救いにはならない」「才知に富む人間なら、独りぼっちになっても自分の思想や想像に慰められるものだ」と言っている。
 若いうちには仕事に追われてやくたくてもやれなかったことがある。それをリタイヤ後に再開するという手もある。
 モンテ−ニュはこんなことを書いている。
 ある老人が勉強するのを見て「そのように老い朽ちてから何のためのご勉強か」と問われ、その老人はこう答えたという。「より悟りえて、より安らかに、この世をみ罷り去らんがために」と。
 こ考え方には賛同できる。やりたくてもやれなかった勉強を、そのままやらずしまいにして死ぬのはいかにも口惜しいからである。
 それもなければ家事を分担する手もある。
夫が仕事をしている間は、妻は子育てや家事を分担し、夫は生計の資を得ることを分担していたわけで、それなりにお互いの了解があった。が、夫のリタイアで妻の家事労働という年中無休の負担だけが残ることになるのだ。
 それが妻の不満のタネになりかねない。だから、「今食えるのは、おれが働いた期間の年金があるからだ」などと言わずに、夫が家事労働を進んで分担すれば、家庭円満への一歩ともなるというものである。
そのなかで料理の腕でも上げれば、一石三鳥くらいのメリットを期待できるかも知れない。
 村上新八