藝術は造形形式によって真を追求する哲学
エジソンがいなくても電灯はいずれ発明されたであろう。ライト兄弟がいなくても飛行機はいずれ発明されたであろう。彼らがそれらの発明を先駆的に行なった功績は認めるが、それは科学的研究の延長線上にあるものだからである。科学技術というものはそういうものである。
しかし、藝術は違う、バッハやベ−ト−ベン、モ−ツアルト、シュ−ベルトがいなければ音楽は違ったものになったであろう。文学、絵画、彫刻、舞踊、映画の分野でも同じことが言えるのである。
藝術は、科学と違って、夢を追っての、実験や理論の積み重ねの結果ではなく、突然変異ともいうべき天才によって直感的に創作されるものだからである。
半世紀以上前の少年雑誌に掲載されていた、ロケットやロボット、殺人光線、月探検など等は、今日現実のものとなっているのである。かし、藝術はそのような予想ができない世界なのである。それが科学技術と藝術との違いである。
自然の美を写し取るという働きでは絵画よりもカラ−写真のほうが優れている。しかし、どこか違う。それは作者の感性、人間性が絵のなかに色濃く反映されているからである。それが写真とは違った絵画の面白さであり、ユニ−クさなのだ。単な寝る美しさから言えばカラ−写真のほうが優れてはいるが、作者の人間性は写真では反映させにくいのである。被写体選び方、光の具合、撮影技術でそういうことが出来ないことはないが、絵画と比べたら段違いである。
また、特に抽象画では美よりも醜を感じさせるものも少なくない。こうなると、美は退いて、その奇抜さや構図、色彩に対する驚きとか感動とかが我々に訴えてくるのである。
それは人間にとっての「真なるもの」の追求であると言ってよいであろう。その意味で、藝術は、造形(音、形、文字、色彩等)の形をとった哲学であると言えるであろう。
村上新八
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