人間はどこまで自由であればよいのか
法の言葉に「思想は罰せず」と言う言葉がある。考えているだけなら処罰の対象にはいないという意味である。これは、「自由」といことにからめれば、「意志の自由」の段階である。
何故人間は自由を求めるを求めるのか、それは何者にも拘束されていないという「開放感」を望むからである。人が開放感を味わうのは、単なる内面にとどまるだけ、つまり意志の自由や考えることの自由だけではなく、その自由意志による行動が、拘束されていない、たがにはめられているという感じがないことを体感できる場合である。だから、人間の自由は「行為の自由」でなければならない。
人間は社会的動物であるから、「法に触れず、公共の利益を害しない範囲で「自発性ある自由意志」に基づいて行動することが阻害されないと感じるられること、それが人間の自由である。問題は自発性の条件だ。
スピノザは「人間たちは自分が自由だと思っている。なぜなら、自分の意志や欲望は意識していても、気が付かないうちに自分に欲望させたり、意思させたりしている原因があったなどとは考えもしなければ、夢想することさえないのだからである」と言っている。
つまり、自分の自由意志であると思っていることであっても、その背後にそうさせているものがあれば、自由な意志とは言えないではないか、と言うのだ。
しかし、その背景である考え方や思想に自由意志で同感した結果であり、同感するに当たって強制されたり、選択を迫られたりしたことがなかったとすれば、それは自由意志とみなすことが出来るのではないか。
それさえも、自覚していないのかも知れない、といわれればそれまでだが、それは、サルトルの言う「あらゆる選択に先立ち、あるいはその選択がそれに依存する根源的な自由」ひいては「自分が自分を創造する自由」「絶対的自由」の概念に至らねばならぬことになる。しかし、それでも「一切の背景なき自発性」の保証はないのである。
村上新八
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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