感官で知りえた事物の表象あるいは概念が「認識」だが、主観的観念論では一切の事物は個人の主観の観念にほかならないとされる。
 認識はこうした主観と客観との関係であるから主観に左右されることは当然である。 

 「知識」と「認識」は違う。「知識」は単に「知っていること」だが、「認識」は「わきまえていること」と言ってもよいと思う。つまり知識に基づく行動を内包する概念である。
 感官で受け取る人間の認識は「真」ではない、それは真なるもの「イデア」の影にすぎないとプラトンは言ったし、カントはその真なるものを「物自体」として認識はそれを把握できないものだとした。
 人間の認識が真なるものとは断言できないことは確かであるが、それはいくつかの制約があるためである。
1認識の手段や条件整備による制約
 梅毒菌の発見などで医学に貢献した野口英世はフアリカでの黄熱病研究途上でこの病に倒れた。当時は顕微鏡しかなく、菌より小さい黄熱病ウィルスは発見できなかったためである。このように、手段や条件整備の制約から誤った認識をすることは少なくないのである。
2認識目的によって、認識範囲も深さも違う
 人間の認識は万全ではない。自分の住んでいる町でも、その認識は極く狭い範囲であるという。確かにその通りだが、それは認識の誤りではなく、目的の違いによるものである。
 ロンドンのタクシ−運転免許を取る目的なら、市内の狭い路地の隅々まで知悉する必要があるが、短期間の滞在のためにはそれは全く不要なのだ。これは認識の誤りではなく、目的による認識の程度の違いなのだ。
3個人の主観による認識の違いもある
 ロックは、重さ、形状など物理的な第一性質と匂い、色、味のような第二性質に分け、前者のみがあるがままに認識に反映されるが、後者は主観に左右されると説いた。このような差は主観の差であって認識の不正確とは別のものである。
 このような主観による差は、政治、イデオロキ−、信仰など社会現象のすべてにある。「見解の相違」と言うものがこれである。

 認識とはこういうものであり、真に真なる「イデア」とか「物自体」を想定して人間が認識しうるのはその「影」に過ぎないと、人間の認識と真実界とを切り離してしまう必要はない。人間の叡知、科学の発展段階で変わってくるものと考えるべきものである。「歴史が評価する」とはこの意味なのである。
 村上新八