しばらく前の話だが、「臨死体験」ということがはやったことがあった。人が死に瀕して、この世とあの世を行き来して、美しいお花畑みたいなあの世の入り口らしきものを経験したというような話であった。
 悪人なら、地獄の入り口であってもよさそうなものだが、そんな話はなかった。一様にお花畑の極楽のようなところであった。ということは、人の願望と幻想が入り混じった仮死状態にある脳が起こした夢まぼろしであったのであろう。
 「人間は死を経験することは出来ない。死ぬ瞬間までは生きているし、死が訪れた時点では、意識はないからだ」とある哲学者が言ったが、人は「死」ということは、他人や動物の死によってしか知りえないのだ。
 死は「無」である。霊魂なぞはない。不死の霊魂なぞは人間のそうあって欲しいと願う願望に過ぎない。それでは、人間にとっての死の意味はなにか。
 それは人生の区切りだと思う。自分が生まれたというのは、それ自体奇跡的なことである。人はみんな当たり前のような顔をして生きているが。沢山の男と女がいるなかで、父母が結婚したというのも、奇跡的なことであるし、何百の卵子と何万もの精子のなかの一組が受精したことも奇跡である。
 「有難い」というのは仏教由来の言葉だが、この本来の意味は「めったにはない」と言う意味である。その意味どおり、この世に生を受けたというのは「有難い」ことなのである。
 その人生に死という区切りがあり、再び生まれてくることはない。この世に自分があるのは、その死という区切りまでの一度こっきりだ、ということをよく認識して、その人生を
自分なりに有効に過ごさないともったいない、と悟るべきだ、というのが「死」の意味ではないか。人は「死への存在だ」ということはそのように受け取るべきことではないか。
 村上新八