「神は死んだ」と言ったニ−チェは、神は人間の深淵を見、人間のあらゆる隠された恥ずべく、厭うべき点を見た。人間はこのような証人がいることに耐えることができない。だから、人間は神を殺したたのである、と述べている。ということはニ−チェは神の存在を認めていたのである。
 しかし、神が世界と人間を創ったのではなく、人間が神を創ったのだ。ショ−ペンハウエルは「この世は神が創ったというのはウソだ。創ったのは悪魔だ」と述べ、「凶作、ペスト、飢饉、飢餓など世界の諸悪が未開の原始人の心に神の信仰を生ぜしめた」と言っているが、この方が説得力がある。
 人間は豊作や豊漁、安全、念願成就を神に祈る。また、「困った時の神頼み」という諺にあるように、病気や旱魃、揉め事の解決を神に祈念する。その結果は「神も仏もない」ことに終わるのがほとんどだ。祈念が叶うのは僥倖だけだからだ。
 つまり、人間の力が及ばないと思う場合に、それを叶えてくれる力が欲しいと思う意識が、その力を持つものとしての「神」の存在を希求し、幻想し、でっち上げたのが「神」なのだ。だから原始人ほど神に対する信仰心が厚いのである。
 霊魂の存在も同じである。これも哲学者が霊肉二元論などを唱える以前からあったはずである。
 肉親や親しい人、愛する人、尊敬する人の死や国のために命をなげうった人の肉体が消滅しても、それですべてが無に帰するということには、人間は耐えられなかったのだ。肉体が消滅すること事態は事実だからこれを認めないわけにはゆかないが、せめてその「心」すなわち「霊魂」だけは残っているのだと思いたい。そういう人間の「思い」が「霊魂不滅」という考えに至ったのである。それも人間のはかない「願望」なのである。
 村上新八