この世は最悪だ、人生は苦だ、諦観と解脱しか救いはないと唱え、ペシミズム哲学の代表と目されているショ−ペンハウエルだが、その著「幸福論」を読むと、どうして、どうしてしたたかな生きかたの名人だ。
 苦しみは長続きするが、幸せの感覚は一瞬に通り過ぎてしまう。というのが誠に尤もな彼の持論である。
 その人生の苦とは、病苦とか貧困だが、それを免れている人でも、老後に襲ってくる猛烈な苦しみがある。それは「退屈」である、という。
 人は、これを誤魔化すために、社交場に出入りし、トランプをやったり、くだらないお喋りをして時を費やすが、それは一時だけであり、その後に襲ってくるのは「退屈」であることに変わりはない。安全と余裕が「退屈という魔の使者」を招くのである。それは精神的な死である。
 このように外部に救いの手を伸ばしても大した救いにはならない。自分自身の中に豊かな精神的能力を持っていて、自分の思索や想像に慰めを求められる人だけが、一人ぼっちになっても退屈から免れることができるのだ。
 そのような能力のある人は、社交界やその他外の世界などに慰めを求めようとはしない。大体が社交界などで社交術にたけて、人気のある人間は低級な、知的価値の低い人間ばかりである。高い精神的能力を持つ人は社交は下手なものだ。また、そういう人は社交などに慰めを求めたりはしないから一向に差し支えはないのである。

 このようなショ−ペンハウエルの説は、孤高な変人の独善のようにも思えるが、真理性はあると思う。
 この本のなかで、彼は「処世訓」をいっぱい述べているが、なるほどと首肯できるものが多い。ペシミストとは、用心深いオプチミストのことではないか、と思わせるショ−ペンハウエルの「幸福論」である。
 村上新八