人間に特有なあり方「実存」の特徴は三つあると考える。
 第一は「偶然的与件存在」である。
 これは偶然的なものが人間を支配することである。それは二つの構成、すなわち「血縁的偶然存在」と「社会的偶然存在」とからなる。人間は、精子と卵子の結合によって誕生するが、その性別、民族、国籍、受け継がされるDNAや遺伝因子などは選択不可能なものであり、これを「血縁的偶然存在」という。また、人間がそこで育ち、生活する社会環境なども、選択不可能であり、これが「社会的偶然存在」である。
 ハイデッガ−もこの偶然的、運命的な要素を認め、人間はこれに制約されることが「不安」の一つの要因だと言っている。が、「制約」とは、人間にとって選択肢がありながら、その選択を規制される場合に成立する概念だから、これは「制約」ではなく、人間が甘んじて受け入れるべき「与件」である。
 第二は「時間規制存在」である。
 時間とは、人間にとっては永続的に流れていくものであるが、それは、過去、現在、未来が合一したものである。今は瞬間的に過去になるし、今は瞬間的に未来に移ってゆく。従って今というのはあってない時間、常に過去に送りこ込まれていく今なのである。それは、限られた人生の期間を刻々に切り取っていく今なのである。
 人間は、この時間を意識させられ、時間に追われ、時間を気にしながら生きている存在なのである。学齢期、就職、結婚、子つくり、子育て、資産形成、定年、老後、そして死、人間の一生はすべて時間に追われ、やらねばならぬことのために残された時間を測り、焦らされているのだ。
 第三は「対他的決定存在」である。
 人間は社会的存在である。ということは、社会のなかで、個々の人間が人間がどう扱われるかを決めるのは社会だ、ということである。それが「対他的決定存在」の意味である。
 勿論個人の希望はある。「・・の仕事をしたい」「・・になりたい」という希望があっても、それを受け入れるかどうか、それが叶えられるかどうかを決めるのは社会であり、周りにいる他人なのだ。他人が、それに値しない、向かないと判断すれば、個人的な望みは無視されることになるのである。社会に受け入れてもらえない、というのはこういうことである。
 この三つが「実存」の属性なのである。 しかし、この三つが直ちに、人間の焦燥、脅迫、挫折、不安につながるものであるかというと、そのの可能性を潜在させているとは言えても、そうとは断言はできない。「ケ・セラセラ」と浮遊する人から、自力で自分の生きかたを切り開く人までさまざまであろう。宗教に逃げ込む人も居よう。それから先は、哲学の問題ではなく、各自の人生設計における価値観の問題であると思う。
 村上新八