実存哲学を考える(3)
これまでの実存哲学説の記述でみたように、その哲学に共通的なものは、「生」は死への存在であると言う点にある。しかし、死への歩みは、我々がこの世に生を受けた瞬間から始まっていることで、死は生に内在しているのである。人は自殺志向者でない限り、誰しもが「死にたくない」と思っている。「生」は一回限りで、死はすべての終焉であり、生はかけがえのないものだと思っているからである。
しかし、いつの日か死が訪れるであろうとは思っても、それが原因で「不安」や「虚無感」を抱くことはない。「不安」や「虚無」を感じるのは到来時期が不確定な死によってではなく、別の理由によるものである。
また、「神が死んだから」「神に頼れなくなったから」という理由も首肯し難い。客観的に見れば、神に祈願したから願いが叶った試しはないし、「神頼み」は気休めに過ぎない。キリスト教でも仏教でも善人はもとより、悪人でも悔い改めれば、死後、天国や極楽にゆけることになってはいるが、そんなものは勧善懲悪を勧めんがための宗教的仮象であり、霊魂の不滅もありえないと分かれば、詐欺を免れたような気分になるだけではないか。
また、「無の深淵にさしかけられた存在」と言われ、霊魂が底知れぬ奈落に落ちていくことを想像すれば、恐怖も湧こうが、霊魂なんかあり得ないという認識からは、ばかばしい絵空事だと一笑に付すことになろう。
ヤスペルスは、生は与えられた偶然的、運命的なものであり、それに制約されるという極限状態が虚無の理由としている。生の偶然性、運命性はその通りだが、人はそれを制約と感じるるだろうか。親が資産家で家業を継がねばならぬ場合などは、ある意味での制約はあろうが、絶対にいやなら継がないまでである。そのくらいの自由はあるのだ。これも虚無の理由としては納得し難い。
ハイデッガ−の言う、「道具」や「人」への配慮や「気がかり」が虚無の理由とも言えまい。資産や人との関係で意のままにならぬことは沢山あろうが、それによって失望や落胆はするが、虚無まで突っ走るものではあるまい。諦観ということもあるのである。
サルトルの言う、主体主義の責任や「自由の刑」の考え方も同感できない。自己の選択が万人の指針となるとは思わないし、そんなことはあり得ない。自由の刑は自由の継続と保証であるという反面を考えれば、こなん良いことはないと思うべきであろう。
これらの諸説のなかで、一番納得できるのは、ショ−ペンハウエルの「盲目的生存意志」の思想である。精神的、肉体的な苦悩、挫折に満ち、喜びは短く、苦しみの長い「生」を盲目的に生きようとする苦難をそのまま認め、これらの煩悩を捨て去るしか救済の道はない、という仏教的帰結に至った缶変え方が一番「実存的」な思考と言えると思う。
村上新八
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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