人間は単なるものではなく、主体性、内面性、個別性、時間的な偶然性を持つ存在である。従って人間にとっては存在というものが、その本質よりも重視されねばならない。
 キケルゴ−ルは、ここに着目して、この人間に特有な存在のあり方を「実存」と名付け、私にとって真理であるような真理を見出すことが重要であると説き、現実的、具体的
、個別的、偶然的な思惟を実存的思惟とした。
 それは、永遠の相の下にある人間ではなく、時間の相の下にある人間、不安と罪に悩む個別的人間を対象ししなれければならない。その方法はロゴス的、客観的なものではなく、主観的、パトス的なものでなければならない。「主体性が真理」なのだから。
 人間は魂と肉体の間に挟まれている存在である。肉体は有限であるが魂は無限である。だから実存は有限と無限の間にあるものとして無限の運動が可能なのだ。その運動は飛躍する運動であり、質的な飛躍がなされ得るのである。それが「主体性の真理」なのだ。
 その飛躍iは三段階がある。第一段階は常に可能性のなかを浮動し、人生のあらゆる快楽を常に新鮮に味わい尽くそうとする「美的実存」である。次ぎの段階は、美的実存での快楽の奴隷化を自己否定して、良心を持ち、厳粛に義務を自覚し、道徳律に縛られて生きる「倫理的実存」の段階である。しかし、この生き方の厳しさの前に人間は挫折してしまう。そこで第三の段階である。「宗教的実存」に飛躍することになる。
 宗教も神も不条理であり、パラドクスだが、これを乗り越え、これを受け入れ、神の愛にすがり、喜び、感謝に変えるのである。
 
 「イデア」や「もの自体」ではなく、人間特有の存在のあり方、自分にとっての真理を追究しようとするキエルケゴ−ルの哲学は当時の哲学では新天地だった言えよう。
 しかし、美的実存から倫理的実存、宗教的実存への質的飛躍の理論はあまりにも安易だ。いかにも机上の思弁臭い。
 こういうプロセス的飛躍は実際には極めて稀であろう。これはプロセスではなく、別々の道だと思う。キルケゴ−ルの頭には初めから宗教的実存というゴ−ルがあって、それに導くための手順であったような気さえする。
 神の存在は不条理だが、信じるしかない、というのは「困ったときの神頼み」であり、自己欺瞞だ。
 村上新八