ニ−チェは、生を無差別的に肯定した。自然は人間に害を与えることもあるが、これを不道徳とは言わない。これと同じで、徹底した生の内在の立場からは、人間の営みは無垢であり、善であり、すべての行為は無責任であり得る。
 生は本来非道徳的なものであり、善悪の彼岸に立つものとして肯定される。それを強いて道徳的に解釈しようとするから、人生の否定に誘惑されるのである。道徳は生を蔑視し、生を否定しようとする最大の危険である。
 ソクラテスは「徳」とは何かを説くことによって健全な生命を腐敗させたし、キリスト教は弱者への愛と憐憫を説くことによって人間を卑小にし、卑屈にし、ニヒリズムの根源となった。
 人間の生はあらゆる苦痛に満ち満ちているが、このような生は短い時間として永遠の時間のなかで、塵の塵の果てまでが「永劫回帰」する。
 一方、神は当てにならない頼りにならないから人間は神を殺したのだ。神の死は一方において、生を一層謎めかしきもの、悩み多きもの、不可測なものにしたが、他方無限の可能性を蔵するものになったのである。  神なき世界で、生を絶対的に肯定することを可能にするものこそが「超人」である。
 生々流転の世界を絶対的に運命化し、自己の絶対否定に直面させる「永劫回帰」を「運命への愛」と「権力意志」で受け入れ、キリストの神に代わる人類の支配者となる「超人」である。その育成、産出を人類の目標としなれーければならない。民衆はそのための手段であり、服従者となるのだ。
 ニ−チェが「一切の価値の転換」を求めて、キリスト教や従来の哲学で説く「天上界」や「イデアの世界」は幻に過ぎないと切って捨て、大切なものは現世であり、「大地に忠実であれ」と説き、「永劫回帰」する生を直視し、これを受け入れよと説いたのは正しい。が、結局は「神」に代わる「超人」というこれも同じ「幻」に頼らざるえなかったのである。これはニ−チェ哲学の「逃げ」である。だからナチスによって、民主主義を否定するヒットラ−の思想的背景として、この「超人」概念が悪用されることになったのである。
 村上新八