これまで、近代哲学の祖といわれるデカルトからヘ−ゲルに至るまでの哲学者がそれぞれの哲学のなかで神をどう位置づけていたかを述べてきたが、これらをまとめておくことにしたい。
 近代哲学では神は切っても切れない関係にあるが、哲学での神の出現はアリストテレスあたりまで遡る。
 アリストテレスは、事物の主要原因である「質量」には、一定の事物に形成する原理であるいまひとつの原因、「形相」(エイドス)が不離に結合していると考えた。更に、この質量から離れた純粋形相として、世界における運動の第一原因である「動かざるして動かすもの」「不動の動因」すなわち「神」を認めたのである。こうした神と哲学との関係はキリスト教の布教とともに以降の哲学に不可分に結びついた。
 それは神というものの起源と密接に関係していると思う。神の起源を想定してみると二つに集約される。
1完全なものへの希求
 人間の認識は不完全なものである。正しいと思っていてもそうではなかったり、時代とともに正しいものが変わったり、当てにならないのが人間の認識だ。しかし、完全なもの、永久不変なもの、絶対的なものがどこかにあるはずだ。それが神である。
 デカルトやヘ−ゲルはこの考え方である
2絶対的な力への願望
 人間の世界は、旱魃、水害、地震、落雷、病気、死など人間の力ではどう仕様もないものに囲まれている。人間の幸福についても同じである。これを自由自在に防止したり押さえこんだり、願いを叶えたりしてくれる力が欲しい。それは超人間的な力であり、それを持っているのが「神」である。スピノザやカントの「至高善」はこの考え方である。
 こういう願望は人類共通のものである。だから文化水準、地域、人種の如何を問わず、人間はさまざまな神を持ち、崇めているのである。
 ロックが「神が存在するという認識は人間の理性に備わったものだ」としたのは、こういう理由ではなかろうか。
 この二つが神の起源の基本であると思う。
そこから、バ−クリ(我々の全存在は神の心のうちにある)やライプニッツ(モナドの予定調和)、スピノザ(神と自然はイコ−ルである)のように全面的に世界を神の手に委ねるという考え方にもなるのであろう。
 こうしてみると、人間の不完全さ、弱さからそれを克服しうる力を持っている存在があって欲しいという願望が「神」を作り出したと言えるのではないか。
 村上新八