戦後の歴代首相のうち、吉田茂(5回)、岸信介(2回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)まではすべて公式参拝

この四半世紀の間は、内外ともに何ら問題とされなかった。

昭和50年、三木武夫首相になって初めて「私的参拝」と言い出し、
主として憲法問題から公式か私的かの論議が紛糾、
中曽根康弘首相が「閣僚の靖国神社の参拝問題に関する懇談会」の答申を経て、
参拝合憲の結論を出す。






靖国神社参拝と“A級戦犯”の合祀     大原康男(国学院大学教授)

問題の発端
(1)戦後の歴代首相のうち、吉田茂(5回)、岸信介(2回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)まではすべて公式参拝で、この四半世紀の間は、内外ともに何ら問題とされなかった。
昭和50年、三木武夫首相になって初めて「私的参拝」と言い出し、主として憲法問題から公式か私的かの論議が紛糾、中曽根康弘首相が「閣僚の靖国神社の参拝問題に関する懇談会」の答申を経て、参拝合憲の結論を出す。(資料①)

(2)昭和60年8月15日、中曽根首相が三木首相以来10年間途絶えていた靖国神社に対する公式参拝を行なったところ、同年9月20日、中国外務省が同神社に“A級戦犯”が合祀されているとして「我が国人民の感情を傷つけた」と抗議。(資料②)
以後、中曽根首相は参拝を取り止め、竹下・宇野・海部・宮澤・細川・羽田・村山各首相もこれに倣う。平成8年7月27日、橋本龍太郎首相が11年ぶりに靖国神社に参拝(公私を明らかにせず)、再び中国の抗議を受け、予定していた秋の参拝を中止する。続く、小渕・森首相も参拝せず今日に至る。

いわゆる「A級戦犯」合祀の経緯

(1)占領終了後、靖国神社合祀の迅速化を求める戦没者の遺族の要望に応えるために、昭和31年4月19日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示。(資料③)

それは、祭神の選考は厚生省・都道府県が行ない、祭神の合祀は靖国神社が行なうという官民一体の共同作業で、祭神選考は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」に原則的に依拠している。そして、先の大戦が総力戦であったことで法の適用対象が拡大し、それによって祭神の範囲も拡大。例えば、徴用された船舶の乗組員・警防団員・国民義勇隊員など。

(2)一方、昭和27年4月28日に発効した対日講和条約第11条(資料④)によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない1224名の「戦犯」に国民の同情が集まり、その早期釈放を求める一大国民運動が同年7月から起こる。(最終的には約4000万人の署名が集まる。)

(3)この国民世論を背景にして、国会で昭和28年8月から「戦傷病者戦没者遺族等援護法」および「恩給法」の改正が重ねられ、「戦犯」の遺族も戦没者の遺族と同様に遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになる。(資料⑤)

 そこにはA級とB・C級の区別はなく、また、国内法の犯罪者とはみなさず、恩給権の消滅や選挙権・被選挙権の剥奪もない。(刑死者は「法務死」と呼称)(資料⑥)

(4)こうして「戦犯」関係にも「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されたことで、靖国神社の祭神選考の対象となり、昭和34年3月10日付「日本国との平和条約第11条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされた。

 「A級戦犯」14人については、昭和41年2月8日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によって祭神名票が送付され、昭和46年の崇敬者総代会で了承、昭和53年秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀される。
 一般に知られたのは翌54年4月19日の新聞報道だが、太平正芳首相は従前通り参拝。(資料⑦)

http://www.nipponkaigi.org/reidai01/Opinion1(J)/yasukuni/ohara.htm